韓国の「沖ノ島」−竹幕洞祭祀遺跡
 沖ノ島の祭祀遺跡は、古代日本における国|際交流に際しての国家的祭祀の遺跡として知られ、豊富で豪華な出土品から「海の正倉院」とも呼ばれる。つまり、古代日本は、主として古代の韓国と、ついで古代の中国と国際交流を頻繁に行ったので、そのつど沖ノ島の神に、航海の安全を祈願し、また、感謝の意を込めて、種々の文物を奉献したのであった。

 それならば当然、古代の韓国や中国こおいても、同じような祭祀遺跡があってしかるべきであると考えられる。果して、1992年(平成4年)に、韓国こおいて初めて、沖ノ島祭祀遺跡に比肩される祭祀遺跡が、国立全州博物館によって発掘調査されたのである。 

 ところは、韓国の西海岸地域に当たる全羅北道扶安郡辺山面格浦里竹幕洞に属する辺山半島の、海岸に突き出た岬の突端で、標高約22mの海蝕断崖の頂部に所在する。ここは、沖ノ島と違って立地が岬の突端であることと、沖ノ島では岩上から岩陰、半岩陰.半露天を経て、露天へと祭祀の場が変遷するのに対して、一貫して露天であつたこと、そして、統一新羅時代の8世紀には祭祀建物があったことなど、両者には相違点がいくつか見られる。とはいえ、東中国海を舞台とする壮大なスケールの国際交流に際して執り行われた祭祀の遺跡という点では、両遺跡に共通性が認められる。

 さて、竹幕洞の祭祀遺跡は、古代におぃて、沖ノ島の場合と同様に変遷が見られる。まず、原三国(馬韓)時代の3世紀後半のころから始まったと思われる土器を用いた祭祀は、三国時代の百済前期に当たる4世紀中ごろから5世紀前半にかけてのころ、本格化する。つまり、壷・.甕や高坏などの土器を使って祭祀が行われた。土器にはもちろん、神に捧げるために用意された酒や山海の珍味などの飲食物が盛られていたことであろう。ついで、5世紀の中ごろになると、沖ノ島の出土品と酷似した有孔円板・蝉形品(剣形品)・鏡・短甲・刀子・斧・鎌・勾玉・鈴などの石製模造品が使われ始める。ちなみに、材質は沖ノ島では滑石製であるのに対して、竹幕洞はほとんど片岩製である点が異なる。これらの石製模造品は、『日本書紀』の記事などから類推して、神木に掛けて祭祀が行われたのであろう。そのころから6世紀前半にかけて、竹幕洞における祭祀は最高潮に達したと思われるほど、多量の土器が出土する。そればかりか、土器は壷・器台・甕のほか、杯・高坏.など種類が多くなり、また、大型の甕の中に鏡・武器・農工具・馬具などの金属製品を納めて奉献したりしている。なお、土器の中には、ごくわずかとはいえ、倭の須恵器系統の土器も含まれる。鏡は百済の小型銅鏡と鉄鏡である。

 武器は鉄剣・鉄矛などであり、また、農工具は鉄斧・鉄_などである。そして、馬具は鞍金具・杏葉・馬鐸などである。最後に、前述のとおり、統一新羅時代に当たる8世紀のころには祭祀用建物が出現していたといわれるが、土馬や土偶はそのころのものであろうか。竹幕洞では、古代以後も中・近世の高麗・李朝(朝鮮)時代を経て、現代まで信仰が生き続けている。現在、竹幕洞遺跡の上には1864年に創建され、その後も4回にわたって増改築が繰り返された水聖堂と呼ばれる小祀が建っている。つまり、周辺住民が豊漁と航海の安全を祈つて女神を奉賛しているのである。

 ところで、竹幕洞における古代祭祀を振り返ると、当時の国際交流の諸段階が浮かび上がつてくるのである。まず、3世紀後半では、帯方郡を通じての魏・西晋と馬韓・倭との交流が背景となっている可能I生がある。ついで、5世紀中ごろから6世紀前半といえぼ百済と倭の密接な交流の時期に当たる。とくに、5世紀中ごろから後半の時期には、いわゆる倭の五王による中国・南朝への遣便が行われた。一方、百済も4世紀中ごろから6世紀にかけて、中国の南朝と頻繁な外交関係を展開した。このことは、竹幕洞遺跡における南朝の青磁壷や黒褐釉甕などの出土からも裏づけられる。また、竹幕洞遺跡で出土した馬具のうち、亀甲繋文龍・鳳凰透彫の鞍金具や剣菱形の杏葉は、たとえぱ加耶古墳の陝川玉田M3号墳出土のそれらに共通する。土器についいても、僅少とはいえ加耶土器の系統のものが見出せることも見落としてはならない。これらの事実は加耶と百済の交流を物語る一方、479年に加羅王荷知が南斉に通交したという記録を参考にすると、加耶の南朝への遣使に際して、竹幕洞で祭祀が行われた可能性も考えられるのである。最後に、統一新羅時代の8世紀といえば、古代の韓国や日本は中国へ盛んに遣唐使を送った。竹幕洞は、そのときも外交のルート上に位置したことばいうまでもない。

 このように見てくると、主として百済の竹幕洞における祭祀遺跡と、その出土遺物は、中国の南朝と百済・加耶・倭、そして、百済と加耶・倭の間で展開した国際交流の_一端を如実に物語ってくれる。ひるがえって日本における竹幕洞に相当するのが沖ノ島であってみれば、古代の日本が、古代の韓国や中国の先進文明を受容するに当たって沖ノ島は大きな役割を果たしたといえよう。