九州とシルクロード   −沖ノ島と李賢墓−         西谷 正
  玄界灘のまっただ中に浮かぶ沖ノ島が、海の正倉院とも呼ばれるようになったのは、1954年の第1次から1971年の第3次まで、十数回にわたって実施された発掘調査の結果、そこが海神を信仰する島として、長期にわたる祭祀遺物が大量に包蔵され、また、その内容が超一級品であることがわかってからのことである。そしてそのことは、4世紀後半から10世紀初頭にわたり、対外交渉時に航海の安を祈る国家的祭祀の場としての性格をじゅうぶんに物語ってくれるものである。

 そのうち、5〜6世紀ごろのものとして注目されるものに、カットガラスの碗がある(第1図左)。それは第1次・第2次調査の際、8号遺跡の中央小岩の東北と西南側より同一固体の破片が二つ出土したもので、淡い緑色を帯びている。復元すると、口径約12cmで、上段に9個と下段に7個の円形浮出し切子の装飾をもつものである。そののほかの出土品に、朝鮮半島における三国時代新羅の王陵クラスの古墳から出土する金製指輪・金銅製杏葉・鉄てい・鋳造鉄斧などと共通するものが含まれている。また、朝鮮半島では新羅でのみかなりの数量のガラス容器が出土することを合わせ考えると、沖ノ島出土のガラス碗は新羅からもたらされた公算が強い。このガラス碗については、酷似するものが、はるかイランのギラーン州マザンデラン地方の墳墓で出土していることを、東京大学イラン・イラク調査団の深井晋司氏によって明らかにされた。深井氏によると、イラン高原では、パルティアよりササン・ぺルシャの時代つまり3、4世紀以降7世紀ごろにかけて、各種のガッ卜ガラスが製作されたものと推定されており、その中に、沖ノ島出土品のような浮出し円文をもつものが含まれているのである。

 ところが、古代ガラス研究家の由水常雄氏によれば、イラン高原は、出土地が多いからといってただちに製作地でもあったとすることはできず、むしろ古代貿易ルートの集荷地であった可能性が大きいとされる。そして、そのようなカットガラスは、地中海周辺のローマン・グラスの産地で製作されたものとされる。
 日本の古墳時代の出土品には、そのほかに京都市上賀茂神社境内や伝安閑天皇陵古墳でそれぞれ出土したカットガラスがあり、沖ノ島出土品と同じコンテクストで考えられる。

 さて、沖ノ島出土の浮出し円文をもったカットガラスにきわめて酷似したものが、シルクロードに当たる地域でも見っかっているのである。それは、敦煌の東南方およそ870kmほどのところに位置する、寧夏回族自治区固原県の県城南部の郷深村で1983年に出土したものである(第1図右・第2図)。このガラス碗は、沖ノ島出土品と同様に、浮出し円文の装飾をもつもので、口径9.5cm、高さ8cmの緑色を帯びたカットガラスである。ちなみに墳墓から出土品300点余りの中には、?金銀製把手付の水瓶があり、ササン時代のバクトリア製品とされる。ところで、この墳墓は、墓誌によると、北周の李賢(503〜569年)とその妻呉輝(547年没)の合葬墓であることがわかった。

 また、上賀茂神社境内などで出土しているカットガラスは、最近でも1980年に新彊ウイグル自治区の楼蘭古城跡で出土しており、筆者は、1988年の現地調査の際に実見したところである。
 このように見てくると、沖ノ島出土のガラス碗のルーツを考えるとき、シルクロードが大きく浮び上かってくるのである。