07福岡歴史研究会講座1

 

弥生人の食文化    高島忠平

 

1、日本の食事文化の起源

 

 中国の歴史書『魏志倭人伝』には、倭人は「(へんとう―高杯―を用いて手食す」とある。l800午前、今日の日本.人の祖先である倭人は、木ややきものの高杯な食器として、それに盛られた食物を、指でつまんで、口に入れる食事を行っていた。この時期に用いられた食器から類推すると、食事は、大きな高杯に盛られた食物を、銘々の小型の高杯や椀に採り分けて食べる共食の形を取っていた。1800年前から、銘々の食器があるというのは、世界的にも極めて珍しいことで、今日の「銘々皿」の起源が、古い起源を持つ日本固有の食文化といえる。

 また、コメが日本列島人(弥生人)にとって主食となったのも、弥生時代からである。これはコメを炊いたり、蒸したりする用途に応じた甕形の土器が、弥生時代から急増することから推察できる。したがって、前述のような食事のとり方も生じることになる。

共食の食事に用いる器は、当時の神々に食事を奉げる器とは、作りの差はあっても、高杯・小型高杯・器台など機能・形体や大きさには大差はない。これは、食物を一旦豊穣の神々に奉げた後、神とともに食べるという食習慣があったことを示しており、食物が神々からの賜りものであり、神々の霊魂であり、それを体内に摂取することが、自分たちの生命の再生産につながるという観念や信仰が、人々の精神を支配していたのである。食事は、当時の家族、一族、部族を単位に、日常的に、あるいはハレの日々に、神々ヘの感謝と祈願や一族の団結を確認する儀礼として行われた。人々は、豊穣や幸い、ときとしては災いをもたらす神々やその霊魂の存在を意識して生活していたのである。

 銘々の食器の一つである箸を日本人が使うようになったのは、l300年前の奈良時代からである。それも上級の階層に限られ、一般庶民が箸を使うようになるのはせいぜいl000年くらい前からである。食欲をあらわす言葉として、「食指が動く」とあるのは、語源は古代の中国にあるが、現代の日本人が、元来、手食であつた記憶でもある。地球上の人間は、もともと、手指で食物を掴んで食べていた。15世紀の西欧は、レオナルド・ダピンチの「最後の晩餐」にあるように、まだ手食であった。汁物に用いるスプーン以外、ナイフとフォークを用いるのは、せいぜい300年くらいの歴史しかない。

 箸の利用は、紀元前約l000年前の中国の周代からであろうといわれている。普及するのは紀元前45世紀の戦国時代から漢時代である。箸は匙とセットで用いられた。汁物は匙、

摘むに適した物は箸を用いたが、箸を用いる文化をもつ現代の中国と韓国および日本では、それぞれ用いられ方が多少違っている。中国は、匙(蓮華)は汁類、箸は御飯や菜類に用いる。韓国は、匙が主、箸は補助的で、御飯や汁類は匙、菜類は箸を用いている。

 日本は、「取り箸」・「菜箸」・「真魚箸」など用途に応じて多様な箸がある。食事では、箸が主体である。汁類も汁物の,入った椀を口元によせて摂る。匙は極めて補助白勺である。

同じような口元までの運ぶ器具を用いるのに、用い方に違いがあるのは、それぞれの地域や民族.国の食材。食材の獲得.調理方法・食事作法などそれぞれの独白の文化と歴史伝統・習慣が反映している。

 

2、人にとって、「食」とは。

 

 「食」は、人にとって、最も根元的な生活のソースである。

1)食―たべる―

 食べるは、尊敬語「たぶ」の謙譲語。「食う」、「飲む」の謙譲語。

人は調理する動物であり、共食する動物である。食とは文化的・社会的行為である。

2)人は何を食べてきたか、主食文化の多様性。

 ムギ、 卜ウモロコシ、コメ、ジャガイモが世界の四大作物、農耕民の主食文化は、ムギ文化、卜ウモロコシ文化、コメ文化、根栽文化(ジャガイモ、タロイモ、ヤムイモ、マニオクなど)と雑穀文化(ヒエ、アワ、キピ)の五つに分けられる。これらの主食に、家畜の乳・肉食がない場合は、狩猟や漁労による肉食・魚食で動物性蛋白質を補う。肉食に偏るのは極北の狩猟民やトナカイの牧畜民くらい。

3)世界の食生活文化圏

*粒食文化(東アジア)                       '

*芋食文化(南アジアの島々)

*キャッサバ文化(南米アマゾン流域)

*粉粥餅文化(サハラ以南のアフリカ)

*粉食文化(インド亜大陸・中東・ヨーロツパ)

*肉食文化(北極圏)

4)何を食べてはならないか―食物規制―

*人社会には、肉食にまつわるさまざまなタブー(禁忌)がある。

*ユダヤ教徒―ブタ・ラクダを食べない。

*イスラム教徒―ブタ・ラクダを食べない、ラマダーンの月は断食。

*ヒンズー教徒―牛を食べない

*東アフリカ ダドーガ族は肉を煮る、マサ族は焼く。

*中国は炒める、韓国は煮る、日本は煮る・生食(ポリネシア・ミクロネシア系)が基本である。

何を食べてはならないかは、自らがどんな文化・社会集団にぞくしているかを示すための最強のラベルの一つである。

 

5)どのように分けるか―食の分配―

 同一の社会集団のなかでも、食物規制がある。分配の違いがある。台湾のヤムは魚に男の食べるものと、男女が食べるものがある。分配が、各人が集団でしめる社会的位置を確認させ、集団内の秩序・均衡を図るとともに、集団の再生産をも図っている。宴会・饗宴、なおらい、供応、接待、コンパ、合コンなどなど。人は、文化として意味を与えられた食物を、社会という文脈の上で食べたり、食べなかったりしている。弥生人骨の同位体分析から男女において、貪材に違いがあることが指摘されている。

 

3、縄文時代の食文化

 

 世界的に農耕が成立、日本列島は山里林高度利用文化が確立、今日の日本の生活の原風景(たたずまい)が準備された。

 

1)縄文環境一日本的風土(山里)―の成立

 約15万年前、氷河期が終わり、地球が温暖化、日本列島は、南からコナラ亜属など広葉樹の森を形成、シカ・イノシシなどが生息するようになった。海は、海水面が上昇、内湾を形成、豊かな漁場が出現した。

 食料の減少する夏・冬のため、貯蔵・保存加工技術が発達し、アク抜き装置、石皿・土器が作られるようになった。狩猟・漁労が盛んとなり、狩猟・漁労道具の発達し、石鏃・石槍・釣り針・魚網などが、多様化・機能化していった。

 生活の安定化、集団規模の拡大、集団労働の発展から、定住化が進み、それに適した住居形態である竪穴住居・掘立て柱建物が営まれ、集落の規模も拡大した。食生活の安定化のため食料の貯蔵施設、調理・加工のための炉が設けられた。

 生活用品の素材となる木材の調達技術が進み、木の伐採用の斧、加工用の斧など加工技術の発達、磨製石斧・石匙(ナイフ)が作られた。

2)食事

 土器は、縄文時代最初の草創期・早期までは、ほとんど煮炊き用の深鉢()形の土器であったが、前期から取り分けや盛り付け用の浅鉢形土器が加わる。後期には壷形土器、注ぎ口の付いた土器(注口土器)も一般化して、器種が出揃い、飲食以外の用途にも土器が使用されるようになった。この時代食事方法は、土器の形態・機能からみて、食物が盛られた大きな器から、それぞれが手で食物をとって、口に運ぶ共食の形であると考えられる。汁物は、一つの椀による飲みまわしであろう。乳幼児の埋葬の壷、炉用の埋窺、貯蔵・祭祀用の土器も作られた。

3)食物と加工

*食料は動物性のものとして、イワシ・アジ・サバ・マダイ・クロダイ・マグロ・ブリ・クジラなどの肴・海獣類、アサリ・ハマグリ・シジミ・カキなどの貝類があった。さらに、

イノシシ・シカ・ムササビ・ウサギ・ガン・カモなど鳥獣類など陸性のものもあった。

 植物性の食物としたては、コゴミ・ヤマイモ・イチゴ・クリ・クルミ・トチノミ・シイ・ドングリなど木の実・根菜類があった。

*食量の獲得と加工・貯蔵

 収穫機会の季節的変動が大きいこの時代の食料、短期集中的に採集・捕獲した。それを保存・加工、燻製・乾燥・塩蔵した。

食量の割合、滋賀県粟津湖底第三貝塚例の復元力ロリーは、トチ・ヒシ・イチイガシの堅果類59パーセン卜、シジミ約19パーセント、フナ・コイ・ナマズなど魚類約14パーセント、シカ・イノシシが9パーセントである。

 現在の世界の人々の食料の割合、植物性8090パーセント、動物性1020パーセントである。基本的には、原始時代の割合と変わらない。動物食を主体とする民族は、イヌイット・エスキモーなど極めてすくない。それでも、植物性の食物の摂取は大事で、射止めた動物の胃の中に残るコケなどの植物を食べる。

生活を補完する物流と交流、海産物・塩・アスファルト・べンガラ・水銀朱・磨製石斧・黒曜石・サヌカイ卜などの石材・南海産貝・ヒスイ・コハクなど20キロ~30キロ

圏、100キロ~150キ口調、1000キロを越えて流通した。こうした社会的ネットワークが存在した。

 

4、弥生時代の食文化

 

1)稲作の始まり

 日本人の主‐食である稲はいつ頃から作られるようになったのであろうか。日本列島における本格的な農耕は、縄文時代晩期後半(2500年前)の水稲農耕に始まるとされている。それは、7500~9000午前、中国大陸長江(揚子江)下流域-帯で成立した水稲農耕が、時とともに、徐々に熟成しながら広がり、その流れのひとつが朝鮮半島を経.由してこの北部九州にまず伝えられ、定着した。

 水稲農耕の起源についでは、インド・ベンガル湾地域、あるいは中困雲南省の山岳一帯とも言われてきた。ところが、中国折江省の長江下流域の河拇渡(かぼと)遺跡・羅家角(らかかく)遺跡で、約7500年から9000年前の水田遺耕や住居跡、農耕用具など初期水稲農耕関係の資料が発見された。それまで判明していた中国の農耕関係遺跡のどれよりも古く、しかも、中国農耕文化発祥の地であり、古代文明の発祥の地であるとされてきた畑作黄河流域とは対照的な南方の華南の地で発見された意義は大きい。ここから、中国古代文明の源流が、黄河流域と長江流域といった二つの潮流があるのではないか、また、黄河流域の古代文明に先立つ、長江文明があったなど、中国古代文明の成立をめぐる論議が高まってきている。

 一方、日本列島では、最近まで、日本列島における稲作の起源は、弥生時代前期から縄文時代晩期に遡るとされてきたが、最近の発掘調査で、縄文時代後期から縄文時代前期にまで、その痕跡が認められると言われるようになった。それは、稲籾や稲作の具体的な痕跡をしめす直接的な資料が発見されているわけではないが、縄文士器の胎土の中に稲の茎の中にある特徴的な形をした珪酸の化石の分析から言われている事である。

 また最近では、稲の遺伝子の研究から、縄文時代の早い時期から焼畑による稲作の存在が、さらにまた、縄文時代中期(4000年前)に栗の管理栽培が考えられるなど、日本列島における稲作を含む農耕の起源についでは、新たな研究の段階に入ったといえる。

日本列島における水稲農耕は、紀元前45世紀頃東アジア大陸農耕社会の発展の影響下、大陸に近い北部九州にまず伝えられ定着した。佐賀県唐津市菜畑遺跡・福岡県福岡市板付遺跡、佐賀県唐津市宇木汲田遺跡・同託田西分遺跡などは初期の水稲耕作の存在をしめす遺跡として有名である。

 低位な技術といっても、用水・排水のための施設が整然設けられた水田が、菜畑遺跡の発掘で確かめられている。この遺跡の水田は、低湿地に面した浅い谷に営まれている。また、この谷を囲む丘陵は、居住には好都合で、初期の水稲農耕は、暫くこのような立地条件の所に集落が営まれ、稲が栽培され人口も徐々に増大していった。

2) 弥生の食

*多様な植物利用

 米以外、弥生時代に栽培された雑穀類は、ムギ、アワ、キビ、ソバ、モロコシ、豆類はアズキ、ダイズ、ササゲ、リョクトウ、エンドウ、ソラマメ、疏菜類はマクワウリ、ヒョウタン、カボチャ、果実類はスイカ、モモ、ウメなどである。雑穀などの栽培、あるいは畑での稲作は、大分県や熊本県の火山性台地など、地域によっては弥生後期にいたつても生業の基幹をなした。打製土掘具や打製穂摘具、石皿、磨石、叩き石など、縄文時代の伝統的な石器が主な農具である。こうした生業形態は、東日本でも例えば長野県の天竜川流域の後期遺跡にみることができる。

 さらに、京都府奈具谷遺跡からは、卜チの実のアク抜き加工所が検出されており、各地で見つかる弥生時代のドングリ類の貯蔵穴と合わせると、救荒食や常備食などに木の実も有効に利用されていたことがわかる。弥生文化は農耕を基幹産業に位置づけた文化であるが、その類型も土地に応じて多様であり、さらに縄文時代以未の網羅的な食料獲得体系も依然として維持している。植物性食料利用も多様だった。

*漁労活動の活性化

 弥生時代の漁労活動に用いた骨角器は、前代の縄文文化を継承したものが多く、釣針、ヤス、銛など個人的漁に用いたものは、縄文時代からの改良は細部にみられるにすぎない。

一方、魚網につけた土錘、石錘ともに極めて多彩であり、九州北部、瀬戸内、東海地方などに発達した。縄文時代の錘が比較的小形で画一化したものがほとんどであったのに対して弥生中期後半から弥生後期に形や大きさが分化して盛期を迎えた。タコツボなど、持定の捕獲対象に対する特定の道具の発達もみた。弥生時代には、漁労活動の専門性を高めるための技術的な基盤整備がなされたこと、内海・沿岸的な漁労活動が地域的な産業として固定化―特産化―ざれていったこと、より共同労働的な規模を大きくしていったと考えられる。

*狩猟と家畜の問題

世界の農耕文化の農業は一般的に、農耕と牧畜から成り立つている。弥生文化は、農耕は行うが、家畜を欠いた特殊な農耕文化とされてきた。しかし、佐賀県菜畑遺跡・大分県下郡桑苗遺跡から出土したイノシシの頭骨の分析から、それがイノシシでなくブタと考えたほうがよいと結論され、各地のイノシシとざれていた個体を調べ直した結果、弥生時代にはブ夕が飼育されていたことが判明した。弥生文化のブ夕は水稲農耕に伴って大陸から持ち込まれたものらしい。長崎県原の辻遺跡・吉野ケ里遺跡からは、イヌの骨がばらばらになって出土した。イヌを食材にしていたのである。この風習も大陸から農耕文化とともに入ってきたものだとされる。なぜならば、縄文時代にイヌは狩猟のパートナーで、食料になった形跡はほとんどない上に、丁寧に埋葬されているからである。その一方、伝香川県出土鋼鐸の絵画からは、猟犬としもイヌが利用されていたことがわかる。弥生時代の動物利用は、縄文的な伝統の上に大陸からの食風習が重なって、複雑化していったといえよう。動物性の食物は、ブタを除き、縄文時代と海性・陸性のものと変らなかった。

弥生時代の食文化は、それから後、古墳時代、飛鳥・奈良時代、平安時代へと基本的に引き継がれていった。ただ、古代国家の成立、階級の出現、地域社会の広がりなどから、食文化の階層性が顕になってきた。ちなみに、奈良時代の宮廷に勤める高級役人と下級役人との食事の原材料費の比率は、101くらいであつた。今日、我われ庶民の昼食代の原材料費は、一食200円くらいだといわれるが、高級官僚が利用する高級料亭の一食のそれは、2000円以上ともいわれる。我われ庶民の食にたいする感覚は、古代とはあまり変わっていないのかもしれない。

 

5、西日本弥生人の自然環境と植生。

 

 吉野ヶ里の集落は、暖温帯常禄広葉樹林であるアカガ・シイノキ・クスノキを中心とした。針葉樹のモミ・コナラやクゾ・ケヤキ・モチノキ・ユズリハ、ムクロジなどが生育している森林を開発して営まれた。イメージすると次のような植生となる。また、食生は、元素分析の結果、魚貝などの海生生物・鹿、猪など草食動物・コメ・ダイズ・アワ・ソバや野生のシイ・クリ・クルミ・ドングリなど植物性の特定の食物群にかたよらない比較的バランスよく摂取していた。出土遺物から食生活の多様性が窺われる。ただし、食糧供給の安定性は、後世や現代に比べると栄養が行き届いていないところがあり、弥生人の骨にはそうしたところが多く見られる。

 

1.植生タイプの抽出及びイメージ

 基礎調査より、縄文時代後期から弥生時代後期にかけての吉野ヶ里地域の植生が推測された。低地から山地にかけての植生は人間の干渉の度合によって、時代毎に変化している。時代毎の植生イメージを次に掲げる。

24.植生イメージ図

※常緑樹林……カシ、シイ等の常緑樹を中心とした樹林。

 落葉樹林……エノキ、ムクノキ、クリ等の落業樹を中心とした樹林。