07福岡歴史研究会講座2

 

弥生人の工芸文化 ―技術の革新(石器から金属器ヘ)― 高島忠平

 

1、稲作農業の交易・工芸の発達

 

 稲作を中心とした農業共同体の成立と農業生産力の一定の高まりは、人々を広く各地域に定着させた。そのことはまた、他の共同体や部族との接触の機会をより多くさせ、地域的な関係を安定させるとともに地域社会を形成した。また、各地に広がった人々は農業生産を基本にしながらも、平野・丘陵・山麓・海岸・河川などの立地条件のもとで、各々が狩猟・畑作・水稲耕作・自然界の特産物や手工業製品など地域的に特色をもった生産を行うようになり、経済的・文化的にも独自の発展を示した。こうした地域的な発展の不均等性と他の共同体との接触の機会が多くなったこととは、交易を一層発展させる前提となった。弥生時代中期になってみられる弥生式土器の地域差や土器の地域間の移動はこのことをしめしているといえる。

 社会共同体の内部では、性別・年齢別の作業のちがいは別として、これまで平等に分担した作業の細分化が進み、鉄器・青銅器・装飾品・殊殊な土器など手工業的な生産において専門の工人が現われるようになった。全体的な農業生産力の高まりの中で、生産や生産用具などヘの人々の要求が強くなり、各地域間の交易を一層うながすことになった。この時代には、穀類などの食糧をはじめ鉄器・青銅器・石器・木器などが主に交易された。とくに生産の発達をうながす生産用具などの.手工的な製品に.対する人々の要求は強く交易にあらわれた。縄文時代には、装飾品とか石器の材料など限られたものが断続的に交易されていたが、弥生時代前期末以降は、鉄器・石器などの完成品が交易されるようになった。こうして縄文時代とは較べようもなく地域的な結びつきが広く強くなり、交易圏は安定した。

 

2、大陸性石器の登場と製作・頒布

 

 農耕社会の発展は、特定の地域が石器や金属製品など手工品を製作し、北部九州といった広い地域を対象に頒布するような地域間の社会的分業が可能になってきた。飯塚市立岩遺跡は石庖丁の製作地として全国的に名商い。石包丁は、稲の穂を一本一本摘み取るこの当時の稲作には欠かせない農耕具のひとつである。立岩で製作された石包丁(穂摘み具)は福岡県嘉穂郡と同鞍手郡の境にある笠木山に産する小豆色輝緑疑灰岩を用いていることに特色がある。その製品は、福岡県のほぼ全体と佐賀県の西側と大分県日田市までにおよび、立岩遺跡を中心に半径50キロメートルほどの広範な地域に行きわたっている。また、福岡県福岡市今山遺跡製作の玄武岩製大型蛤刃石斧は、北部九州一帯を中心に南は熊本県宇土市域までも供給されている。福岡市今山では、その地方に産する玄武岩を用いて、木器の原材料を切りだすための大形の蛤刃石斧を製作し、これも北部九州一円に頒布している。この玄武岩を用いた石斧は、佐賀平野でも多く発見されており、立岩製の石包丁の分布範囲は重なりあうが、これは弥生時代の甕棺墓の分布範囲を出ることがない。埋葬様式が種族なり部族などの原始的社会の文化の共通性をしめすものとすれば、交易や交易圏は一定の歴史的段階にある原始的社会の文化的テリ卜リイーに規制されるということであろう。

 稲作は、それに伴う多くの種類の道具と技術を日本列島に伝えた。ひとつは、太型蛉刃石斧・柱状片刃石斧.・石包丁といった農耕に伴う磨製の石器である。磨製の石槍や石剣・石鏃も出現し、武器においても発達が見られるようになった。とくに、武器は縄文時代に比べると質・量とも飛躍的に発達し、戦いが社会的・政治的に重要性を持ってきたことが伺える。縄文時代に発達した狩猟もひき続いて行なわれた。矢には、従来の打製石鏃に加えて、貫徹力にすぐれた、細身の磨製石鏃が採用された。また、農耕社会の発達が、それまでの氏族社会に階旛・階級の分化を促がし、政治的社会―「国」―が成立あるいは成立する過程の中で、首長層など身分や地位の権威を表象する品物の需典と製作が開始され、それが新たな交易品として登場する。弥生時代の工芸は、こうした交易の新たな発達とリンクして発達したと考えられる。

 

3、縄文時代の交易と品物

 

縄文時代の集落跡からしばしば遠隔地から運び込まれたと考えられるしる遺物が出土し、既に梱当広範囲にわたって物資の流通や交易がなされていたことば各地の調査成果により、

明らかになっている。

 例えば、千葉県加曾利貝塚から出土した石器の原産地は茨城県や群馬県、伊豆・箱根などに広範囲に及ぶ。青森県三内丸山遺跡では、新潟県姫川産の硬玉、北海道摩の黒曜石、秋田産の天然アスファルト、岩手産の琥珀が発見され、この遺跡に多くの遠隔地からの「貴重品」が持ち込まれていることが明らかになった。

こうした縄文時代の「交易」をあらわす調査結果は、当然そこに縄文時代からこれらの交易を行ぅための「場」、すなわち市的な場があつたことを想像させる。そうした市的な「場」

の候補としてまず挙げられるのが、こうした遺物が出土している遺跡である。遠隔地から持ち込まれたと考えられる遺物が出土するのは、いずれも縄文時代の拠点集落とみなされる遺跡である。

 特に、硬玉など日常の石器材料などとは異なる[貴重品」にはその傾向が顕著に認められる。縄文時代の硬玉原産地(新潟県糸魚川下流域)から、100キロごとに硬玉出土遺跡数を算出した宇野隆夫氏の研究によると、糸魚川産の硬玉は、東は中部高地、関東、津軽海峡域、北海道石狩低地、西は北部九州におよぶ流通の状況が認められるものの、近畿地方や瀬戸内海のような縄文時代の拠点集落を確認しにくい地域では、硬玉の流通は少ないことが明らかになっている。このことは、拠点集落が縄文時代の交易に果たしていた役割を考えるうえで示唆的である。拠点集落は、地域集落群の交易センターであり、そこで市的な物資の交換が行われたことが推定できる。

 こうした拠点集落が市的な交易の場となったのは、そこが墓・祭祀施設を備えた周辺集落の祭祀的求心力の場であったからである。それは、こうした祭祀的求心力を持つ場所が季節の祭りの場となって、祭りのために周辺集落から多くの人々が集まってくるというばかりではなく、「沈黙交易」に多くその例を見るように、「神」のもとにまず品物を捧げ、「神」の媒介によって交易を行うという意識も存在したためである。

 三内丸山遺跡や大湯環状列石、御所野遺跡から発見されている墓や環状列石に伴う倉とも考えられる掘立柱建物は、この観点から、貯蔵・保管のための倉庫ではなく、神(精霊・死霊)に捧げる施設ために品物を納めるための「倉」的な性格を持った施設であった可能性を考えることが出来る。以上のようこ、縄文時代にも拠点集落において市的な交易が行われた可能性は極めて高い。そして、市的な交易が行われる場となるためには、そこがもともと祭祀的求心力をもった場所であり、人々が集まる場所である墓や祭祀施設があること、そしてこれに伴う倉的な納め捧げる施設が伴っていた可能性が指摘できるのである。

 縄文時代後期になってくると、墓や祭祀施設が集落から離れて営まれるようになるが、倉の機能をはたすとみられる掘立て柱の建物が、供伴しており、こうした場所が依然として市的役割をはたしていると考えられる。

 

4、弥生時代の交易と工芸

 

 市の状況についでは不明であるが、縄文時代以来の伝統にもとづいた拠点集落および祭祀的中心地における市的交換が行われ、農耕社会の成立・発展とともにそれが拡大し地域の政治的枠組みの中に取り込まれていく状況が進行しつつあったと考えられる。

弥生時代前期末から中期初頭にかけて、北部九州地方や近畿地方をはじめ西日本の各地では、集落数が急激に増加する。また、福岡県吉武高木遺跡など大陸製の青銅器を副葬する首長墓が出現してくる。この時期、北部九州では今山産の石斧と立岩産の石包丁の生産が開始され、それが北部九州地方一円に流通する状況も出現してくるのである。同じく近畿埴方でも二上山サヌカイ卜の流通圏が成立してくる。これらの石器の流通が縄文時代と異なるのは、加工度の低い縄文時代の石材流通に比べ原産地での製品化が高い点である。特に、北部九州の今山産石斧や立岩産石包丁はこうした傾向が顕著である。これは交易品の「商品」化の芽生えとも捉えられる現象であろう。

 日常の必需材ともいえる石器の流通圏が確立してくる一方で、北部九州地方の拠点集落や有力墳墓からは中国大陸製、朝鮮半島製の鏡をはじめとする青銅器、糸魚川産の翡翠の勾玉など遠隔地から持ち込まれた「貴重品」が出土するようになる。これらの「貴重品」が縄文時代に拠点集落に持ち込まれたものと異なるのは、特定の墳墓の副葬品として出土してくる点である。すなわち、これらは特定の人物の身分を象徴するものであり、単なる「貴重品」ではなく「威信財」としての機能をもつものになったと考えられるのである。

流通の傾向もまた縄文時代とは異なる様相を見せるようになる。

 宇野隆夫氏の糸魚川産硬玉の流通の研究によれば、弥生時代には流通先が一挙に西日本に向けられるようになり、北部九州地方が最大のピーク、近畿地方南部がこれにつぐピークをなすようになるという。北部九州地方では、中期を通じて縄文時代の10倍以上の量が流通するようになった。こうした現象の背景に宇野氏は北部九州地域、近畿南部地域と北陸地域との「外交ルート」を通じて硬玉が直接に流通した可能性を指摘している。

 中国大陸・朝鮮半島製の青銅器類についでは「外交ルート」による入手がなされた可能性はさらに高まるであろう。『魏志』倭人伝に見えるような地域の首長を頂点とした北部九州の「国々」と中国大陸との貢納貿易が開始された可能性を考えることが出来るのである。

こうした状況の背景に物資の交換を行う「市」の存在があることば確かであろう。そして、先述した石器に代表される必需材と威信材の流通の状況に照らし合わせれば、縄文時代の拠点集落における共同体と共同体の物資の交換というレベルの市に加えて、あらたに地域の首長的権力のもとに取り込まれ、その権威・権力の象徴ともなるべき後の公設市につながる「政治的」「行政的」市が成立してきたと考えられるのである。

 弥生時代の工芸品の増大は、農業生産の向上による遺跡数の増加、従来の拠点集落を統括するような大規模で内部に青銅器や木器の等の工房、祭殿と思われるような大型建物や墳丘墓などの祭祀施設をそなえた中核的大規模集落の成立、威信材と考えられる青銅器や玉類を集中的に副葬する墓の登場などの社会的な変化を背景に出現してきたものだと考えられる。

 

5、木製農耕具の発達

 

 大型蛤刃石斧にも特定の産地が出現し、石包丁同様各地に頒布された。大型蛤刃石斧・柱状片刃石斧など石製工具が出現し、木工技術が進歩し、木製の鋤や鍬や容器が盛んにつくられ、また大きな木材の加工も容易となり、労働用具において、水稲農耕技術発展の技術的基礎となった。耕具として鋤・鍬・ヱブリなど、杵・臼などの脱穀の用具など前代の縄文時代にはなかた木製品が、生産の重要な器物として用いられるようになった。多久市八溝遺跡から出土した木製馬鋤は、田や畑を引き起こす道具である。木製馬鋤の出土は、全国的に極めて稀なもので、この時期、この地方において優れた高度の農耕技術の存在を示すものである。

 

6、織物技術の発達

 

 工芸的には、新たな織物技術が稲作文化にともなって大陸から伝来し確立した。織物は、縄文時代晩期に出現する。それまでは編物によって布が作られていたが、織機を用いた布が織られるようになったのである。多久市天山遺跡からは、網目の圧痕土器とともに布目の圧痕のある土器が出土しており、この地でも、稲作の開始早々、布がもたらされていた。一方では、この縄文晩期の布の存在は、縄文晩期以前から日本列島には、布を織る技術が存在していた可能性を推察させるものでもある。

弥生時代の布は、多くは大麻を原料とする麻布であるが、絹織物も早くから織られていた。その絹織物も、大陸からの技術の伝来によるものだが、弥生時代前半期と後半期とでは様子が異なる。前半期の絹織物は、糸の分析よれば蚕が四眠蚕で中国の河南系、後半期のものは、三眠蚕山河北系・楽浪系である。ほかに弥生前半期のガラス・鉄製品には、河南系のものがあり、弥生文化と中国大陸との文化的な関係とその推移についでも多様な展開があったようである。絹織物の種類も多く、吉野ヶ里遺跡では一般的な目の詰まった平絹・すきめ織りの平絹・ねじり織りの薄絹や糸を茜や.貝紫で染めた錦様の織物もある。また、吉野ヶ里遺跡では、身ごろと筒袖を縫い合わせた部分が出土している。魏志倭人伝には、倭の織物として、麻織物のほか倭錦ともよぶべき織物の産出を記し、さらに、弥生人の.衣服については、貫頭衣或いは縫うことのない袈裟衣であると記しているが、吉野ヶ里遺跡の織物の出土状況から、ことのほか、弥生時代の衣服は変化に富んでいたようである。

弥生時代の絹織物の出土のほとんどは、北部九州地域に限られており、ほかの手工品を含めこの地域の先進性を示すとともに、魏志倭人伝の記述との整合性、ひいては邪馬台国九州説の裏づけとされている。

 

7、青銅器の製作

 

 青銅器は、銅と錫と鉛の合金である。この青銅器の製作は、日本列島人が初めて出会った金属の科学である。このことを含め、弥生時代は、極めて大きな技術革新の時代でもあったと言える。水稲耕作、織物技術、ガラス製作、鉄器製作など生活にかかわる縄文時代にはなかった新たな技術が、大陸や朝鮮半島からもたらされ定着した。これらの技術は、後の日本列島文化の基礎として、発展・拡大した。

 有明海周辺に広がる筑紫平野は、九州最大の平野であると同時に、日本の穀倉地帯の一つでもある。また、有明海は、日本最大の干満差をもつ浅海で、豊かな魚介類を産する内海である。この地方、特に佐賀平野は、こうした自然環境を背景に、古くから豊かで質の高い文化を育んできた。特に、水稲農耕社会成立以降、その普及と発展の主舞台となり、弥生時代の先進的文化の先導的役割をはたしてきた。

このようだ中で、弥生時代における青銅器文化は、この佐賀平野の地域に始まり、定着、発展、列島各地に普及していった。また、有明海を通じた海洋交易は、日本列島各地に止まらず、朝鮮半島・中国大陸各地との文物の活発な行き交いを促進してきている。これらは、稲作農耕の成立以降、筑紫平野の豊かな農業生産力を背景に、熟成してきた縄文時代以来の氏族的社会が、部族的な政治社会へと成長して行く中で、はじめて可能になったことであるといえる。それは、青銅器を必要とする社会と、青銅器を製作する技術並びに体制とが、時代の状況となったことでもある。したがって、佐賀平野には初期の青銅器製作を示す遺跡が各地にある。小城郡三日月町土生遺跡、佐賀郡大和町惣座遺跡、佐賀市鍋島本村遺跡、神埼郡神崎町吉野ヶ里遺跡田手・二本黒木地区、鳥栖市柚枇・平原遺跡では、日本列島でも最も古いグループに属する青銅器の鋳型や道具類が出土している。中でも、吉野ヶ里遺跡田手二本黒木地区、丘陵南部の弥生時代前期の環濠から、フイゴの羽口・ルツボなど青銅器鋳造関係の資料が出土し、既に紀元前二世紀以前に青銅器鋳造の専門工人層の出現がうかがえる最も古い資料である。

 青銅器の鋳造は、弥生時代前期にすでに始まっている。しかし、不思議なことに、青銅器の故地である朝鮮半島と海を隔てて直面する玄界灘沿岸地帯には、古い時期の鋳型の出土は極めて少ない。朝鮮半島からみるとまわりこんだ場所にある有明海に面した佐賀平野に、かえって古い鋳型が出土する。これは、青銅器鋳造に代表される専門工人の出現は、技術の導入を直接的な契機とはするが、むしろ氏族社会が専門工人層と言った分業体制を生みだしうるまで成長・熟成していることが本質的条件であるということをしめしている。また、玄界灘沿岸の平野部と、有明海に向かって開けた佐質平野を含む筑紫平野とを対比すると際立った違いがある。それは弥生時代の水田土壌として適した地下水位の高いグライ土壌や灰褐色土壌の広がりにおいての大きな差である。玄界群沿岸の平野のそれは、後世に形成された平野部を除けば河川沿いにわずかな広がりをもつのみであるのに対して、筑紫平野の大部分は、それが主体となっている。農耕社会成立以後、最も条件にめぐまれた佐賀平野に、農業生産の発展に裏づけられた社会の構造的発展が、より保証されたといえる。そうした地域に新たな技術が渡来し、まず定着する。吉野ヶ里遺跡がその代表例である。

 ここで注意すべきは青銅器鋳造の担い手とその技術の広がりである。吉野ケ里遺跡をはじめ、最近、佐賀平野の古い鋳型の出土地から、朝鮮系無文士器が発見される例が多い。しかも、それらの遺跡は、地域の拠点的集落でもある。このことから、初期の青銅器の鋳造には、朝鮮半島からの専門工人が深くかかわっていたといえる。またへ古い鋳型と朝鮮系無文士器の分布から、渡来系専門工人によるネットワークの存在が推測される。青銅器製作や鉄製品製作などの新技術は、渡来系の技術者によって、在来の氏族社会に新しい生産部門として定着する。一方で、こうした渡来系専門工人は、従来の氏族社会内の関係からは一定の自由と自立性を保持しており、新技術はこのような専門工人が作るネットワークを通じて、またそのネットワークを拡大しながら広がって行ったものと考えられる。

 

8、石器の製作と背景

 

 稲作を中心とした農業共同体の成立と農業生産力の一定の高まりは、人々を広く各地域に定着させた。そのことはまた他の共同体や部族との接触の機会をより多くさせ、地域的な関係を安定させるとともに地域社会を形成した。また、各地に広がった人々は農業生産を基本にしながらも、平野・丘陵・山麓・海岸・河川などの立地条件のもとで、各々が狩猟・畑作・水稲耕作・自然界の特産物や手工業製品など地域的に特色をもった生産を行なうようになり、経済的・文化的にも独自の発展を示した。こうした地域的な発展の不均等性と他の共同体との接触の機会が多くなったこととは、交易を―眉発展させる前提となった。弥生時代中期になってみられる弥生式土器の地域差や士器の地域間の移動はこのことをしめしているといえる。

 社会共同体の内部では、性別・年齢別の作業のちがいは別として、これまで平等に分担した作業の細分化が進み、鉄器・青銅器・装飾品・殊殊な土器など手王的な生産において専門の工人が現われるようになった。全体的な農業生産力の高まりの中で、生産や生産用具などへの人々の要求が強くなり、各地域間の交易を一層うながすことになった。この時代には、穀類などの食糧をはじめ鉄器・青銅器・石器・木器などが主に交易された。とくに生産の発達をうながす生産用具などの手工的な製品に対する人々の要求は強く交易にあらわれた。縄文時代には、装飾品とか石器の材料など限られたものが断続的に交易されていたが、弥生時代前期末以降は、鉄器・石器などの完成品が交易されるようになった。こうして縄文時代とは較べようもなく地域的な結びつきが広く強くなり、交易圏は安定した。鉄器・青銅器は、最初福岡平野の先進地域で製作頒布されていたが、大陸文化の影響に加えて、交易の発達が直接的な契機となってほかの地域でも製作されるようになり、鉄器は石器より格段に有効な生産用具として普及することになった。弥生時代後期になると、石器類は見かけられることば少なくなり、おもな生産用具・利器は鉄器化していった。青銅器は儀器としての発達をとげた。

 

9、鉄器の登場

 

 弥生時代は、日本列島の歴史の中で、現代を含め最も大きな技術革新が行われた時代であった。数十万年間続いてきた石器を主体とする道具から、金属の道具ヘの変換を遂げたのである。金属の中で最も使用価値があり、時代の技術を大きく変えたのが鉄器である。鉄器は、水稲農耕の開始とともにはじまる。福岡県曲り田遺跡から、縄文時代晩期後半の住居跡から鉄製工具の一部と見られるものが、最も古い例である。弥生時代前期になると少しずつ例が増えてくるが、斧などの工具類に限られる。弥生時代中期になるとさらに例が増え、工具のみならず農具に幅を広げて行く。この時期の鉄器の普及は、北部九州といったある程度地域が限られていたが、中期後半、中国からの本格的な鉄器の流入以降は、その分布を日本列島広域に亘って普及して行った。後期になると、石器・青銅器から鉄器ヘ、鏡や青銅祭器を除くほとんどの武器・道具類が変わって行くと同時に、列島全体の鉄器の流通圏が成.立してくる。この流通圏は、北部九州を中心に形成されていることが伺われ、それに比べ近畿圏は、鉄器の質・量ともこの圏外にあることが、全国の弥生時代の鉄器研究から指摘されている。いずれにしても、鉄器の普及は技術面から、日本列島社会の経済的・政治的社会ヘの進度を早めることを決定的にしたといえる。