07福岡歴史研究会講座3

 

弥生人の建築文化       高島忠平

 

弥生時代の建築についでは、竪穴建物跡、掘立柱建物跡の遺構の発見と出土した建築部材、絵画資料から、構造や意匠(デザイン)など、建築様式がかなり推定できるようになってきた。建築の種類としては、縄文時代以来の竪穴建物、高床建物、平地式建物、門およぴ立柱などである。

 

1、掘立柱建物

 

1)構造形式

@弥生時代の高床建築の形式

弥生時代の高床建築は、梁間1間、桁行l3間の平面形態をもつものが一般的である。こうした遺構の平面形態と出土建築部材の分析から、次のような通柱式の5形式の高床建築の存在が考えられている。

()造出柱式

柱の床下部を円柱、床上部を板柱状に造り出し、鼠返しと台輪に角穴をあけて板柱に落とじ込み、台輪上で井桁組みの横板壁を受け、柱頭部は柚で側桁を支持する形式である。造り出し部分の柱断面を長方形とする例は湯納・山木・台の3遺跡に、方形とするのは納所・古照の2遺跡にある。静岡県下の例は床下の円柱部分を吹き抜けとするが、納所・古照遺跡では円柱部分に貫穴をもち、床下部の軸部固めあるいは床下を壁で囲う形式とする。

造出柱式による高床建築は床部分の柱が構造的に弱く大型高床建築には適さない形式であり、鼠返し盤と共用して小型の穀倉に用いられることが多かったと考えられる。

()分校式

通柱の床部分に枝を残して、枝によって床材を支える大引きを受ける形式である。静岡県山木遺跡、福岡県那珂久平遺跡から出土例がある。柱の径がl0l5cmで細いこと等から造出柱式と同じく小規模な高床建築に用いられた形式であると考えられる。

()際束(きわづか)

側柱に接して束柱を立て、束上に大引きを梁行方向に架けわたす形式である大型の高床建築にも採用されており、高知県西長峯遺跡、筑紫野市隅・西小田遺跡に遺構例がある。

()大引貫式

通柱に貫穴を穿ち、梁聞方向に大引きを貫通させる形式である。島根県.上小紋遺跡出土の柱は径30cmの円柱で中央部に高さ20cm、幅l0cmほどの貫穴があり、貫穴からl0cmほどの間隔をあけて貫穴と直交する柱側面に、幅3cm、探さ2cmの溝が上方に伸びている。柱の上下は切断されて全長はわからないが、垂木を結わえる目途穴と柄穴仕口をもつ桁材からみて柱頭部に平柄を造出して桁に柄差しする形式である。

柱の貫穴は高床の床を支える大引材を大入れまたは柄差しで受け、溝は柱頭から横板を落とし込むための板溝である。大引と横板壁間の約l0cmの間隔には、根太を配り板敷床とする形式に復元される。この柱材の出現によって初めて広い梁間の高床建築をつくることが可能になった。

()屋根倉式

柱頭部に桁・梁を組み、桁・梁を側柱から外旧まね出して、その先端の軒桁で垂木を受けて、屋根裏を住空間、収納空間とする形式である。赤穂市有年原田中遺跡(弥生時代後期)出土の柱材は柱頓に横架材を受ける欠込みがあり、約30cm問隔に交互に向きを変えて5段に貫穴を穿っている。下端の貰大部分で折損しているために柱の全長はわからないが、掘立柱の地上部のほぼ全長に近く、柱頭部で床の敷桁を受ける屋根倉形式の隅柱と推定される。

弥生時代高床建築構造榛式図

(宮本 長二郎 『日本原始古代の住居建築』より)

A総柱型の高床建築と台輪式

以上の弥生時代の高床建築の形式に加え、吉野ケ里遺跡の北内郭の大型掘立柱建物跡(祭殿−1をはじめ、福岡県甘木市平塚川添遺跡、佐賀県神崎町川寄吉原遺跡の3×2問の掘立柱建物跡など、その平面形態から総柱型の高床建築と考えられる遺構が発見されるようになった。総柱型の高床建築は、建物の外線に配され呑側柱に加えて、建物内部にも床や棟等を支持する柱を設ける形式の高床建築で、従来、古墳時代に出現し、これにより広い面積の高床建築の建設が可能になったと考えられていたが、吉野ヶ里遺跡の祭殿−1等の発見により、北部九州地方や近畿地方では弥生時代後期に出現したことが明らかになった。総柱型の高床建築が普及した古墳時代の蒙形埴輪や建築部材等を見ると、この形式の高床建築に伴い、床下部と床上部の軸部を分け、床下部の柱(束柱)上に台輪を置き、その上に柱を立てて壁をつくる、いわゆる台輪式の建築技術も出現したと考えられる。

B壁

 弥生時代の壁材としては、板壁(上小紋遺跡、古照遺跡等)、草壁(湯納遺跡等)が知られている。

吉野ヶ里遺跡の場合、掘立柱建物遺構の規模が大きく、一般的な高床建築は先述した弥生時代の構造形式のうち大引貫式で板壁落し込みであったと推定される。これを踏まえ、壁は板壁とすることを基本方針とした。

C屋根

屋根は、草葺きが一般的であったと考えられる。また、静岡県では弥生時代後期〜古墳時代前期の板目どりした屋根材が出土しており、板葺きもすでに存在していたと考えられる。草葺きの屋根の葺き方は現在、葺草の穂先を上に向けて葺く本葺きと穂先を下に向けて葺く逆葺きがあり、東アジア等の民族事例はほとんど逆葺きであり、日本の民家は本

葺きとなっている。

『日本書紀』の仁徳記の中に、宮殿などの格の高い建物は茅の根元を下にして、切り揃えたと思われる記述があり、古代においてすでに本葺きと逆葺きがあり、建物の格により異なる葺き方をしていたと推測させる。家型埴輪等の例からも、格式の商い建物は屋根にボリュームを持たせていることから、本葺きではなかったかと推測させる。

2、竪穴建物

1)構造形式

@弥生時代の竪穴建物の形式

竪穴建物は、遺構の平面・断面形態や上層断面の分析から、基本的には伏屋式と壁立式とに復元され、伏屋式はさらに5形式に細分される。伏屋A式は竪穴側壁面の下端都または壁面途中に垂木尻を据えて屋根全面を土で覆う形式、伏屋B式は垂木尻を竪穴の周縁部に据えて土葺屋根とする形式、伏屋C式は竪穴の周縁都に土塊を巡らせて、周堤上に垂木尻を据え草葺屋根とする形式、二段伏屋式は主柱4本以上で、主柱と竪穴壁間の屋根下半部を土葺、主柱で囲われた屋根上半都を草葺とする形式、二重伏屋式は草葺を下地として土で覆い、さらに草葺を重ね、草葺の中間に土をサンドイッチとする形式である。

弥生時代には伏屋B式、伏屋C式、二段伏屋式、壁立式の竪穴建物が存在したと考えられる。これらのうち伏屋C式は、高温多雨な気候に最も適したものとして全国的に普及分布する形式で、九州地方の竪穴建物も多くは伏屋C式に復元される。

九州地方弥生時代竪穴住居の架構形式

A

弥生時代前〜中期の円形平面をもつ中・大型住居で、主柱は468本が多く、面積にほぼ比例して7本、9本以上17本までの主柱を竪穴側壁面に並行して円形に配置し、床面中央には2本または4本の補助支柱をもつ場合もある。

この形式の特徴としてあげられる偶数の主柱本数は、建築構造上の何らかの制約を受けた結果であると推定できる。また、主柱以外に床面中央の2本または4本の補助支柱も小屋組架構の補助用材としての役割を負うものと思われる。

竪穴の平面形は楕円形よりも正円形が多く、その場合の主柱配置も竪穴壁面に沿って並行に正円形に配置されていることから、屋根の形式は棟を上げた寄棟造りや入母屋造りではなく、円錐形であったと思われる。また、主柱が偶数本数であることは相対する2本一体の関係を意味するものとして、梁組と叉首組によって円錐形小屋組を形成していたものと推定される。主柱6本の梁組はキ字状、主柱8本の梁組は井桁状に組み、それぞれの端部で叉首尻を受け、叉首上端は中央頂部の短い円柱状キイポストの叫面に柄差しにして集中させる。叉首上に架け渡す母屋桁は円環状につくり、垂木を円錐状に配置し、側桁から垂木を地面上に葺降ろして、屋根は円錐形の地上葺降し形式になる。

 9本以上l7本までの主柱の多い形式の場合も、キ宇状、井桁状に梁を組み、桁状に架け渡して上記のような円錐形小屋組をつくり、キ字状梁、井桁状梁の梁組の交点に支柱を立てて補強したものが補助支柱2本または4本の例である。

 このような円錐形の屋根形式は、四国地方の砂糖しぼり小屋に伝わる形式を参考にしたが、屋頂をキイポストで垂木を収束する方法は技術的にはかなり進歩した方法であるから、頂部では短い棟木(小棟)をあげて、円錐形に近い寄棟造り屋根であつた可能性も考えられる。

B

弥生時代全期を通して最も多い方形無主柱または方形2主柱の小型住居で、少数ではあるが、1主柱形式も含まれる。無主柱、1主柱、2主柱ともに小型長方形平面であり、同じ外観をもっていたと推定される。主柱は直接に棟木を支持するもので、棟木から地上面に垂木を配って、寄棟造りの屋根をつくる。(B2主柱型)無主柱の場合は、2組の合掌を地上面に立てて棟木を受け、2主柱形式と同様に垂木を酉己って寄榛造りの方錘形屋根をつくる。

(B型無主柱)

C

弥生時代全期にわたって存在する方形4主柱形式の中規模住居である。主柱状に桁・梁を架け、梁状に合掌を組み棟木をあげて寄棟造り屋根を地上降しとするものと、主柱・上に桁・梁を架け、これに垂木を配し寄榛造りの屋根をつくる構造形式が考えられる。

D

 弥生時代中期末葉以後の花弁型住居で、鹿児島県大隈半島から宮崎県にかけての地方に分布する。花弁型住居の張出部を含めた平面形式は、円形・方形の上記ABC型のいずれかに属して、構造形式もそれぞれの型に準拠するものと考えられる。

E型

 弥生時代後期の方形間柱付き住居で、大分県下に分布する。長方形平面をもつ方形主柱4243形式の場合は、3組の合掌が棟木を支持する架横形式である。主柱を正方形の平面配置とする中・大型住居に多い方形主柱4445形式の構造は、梁間が大きいので、中央で十字梁を組み、A型のようにキイポストをもつ宝形屋根、あるいは小棟を上げた寄棟造り屋根の構造が考えられる。

 以上のA〜Eの5つの屋根形式は、円形平面や正方形に近い方形平面が多いことから、宝形造りや寄棟造りが主流と考えられる。入母屋造りに復元することも可能であるが、九州地方に現存する近世民家はすべて寄棟形式であり、弥生時代以来の伝統様式を伝えるものと見るべきであろう。

宮本長二郎「竪穴住居の復元」「考古学による日本歴史l5家族と住まい」

2)吉野ヶ里の竪穴建物の構造形式

 復元対象時期である第Z期の吉野ヶ里の竪穴建物は、方形2主柱のB2主柱形が主流であり、設計対象となっている7軒の竪穴建物のうち5軒がこの形式である。これらの竪穴建物の構造・形式は、B2主柱形式にならうこととした。また、他の2軒は方形4主柱形式であり、C型に相当する。C型では、主柱上に桁・梁を架け、梁上に合掌を組み棟木をあげて屋根を地上に葺降ろしとする復元案と合掌を組まず、桁・梁に垂木を配す復元案が考えられている。このうち、合掌を組み上げる形式とすると、屋根の外覇渉2本主柱のものと異なるが、民族事例等を見ると、同一集落内にある建物は、特別な用途のものを除き、屋根の形を揃えるのが一般的である。そこで、吉野ヶ里の基本設計では、方形2主柱の他の竪穴建物と屋根の外観を描えることを主眼に合掌を組まない形式の復元案を採用することとした。

なお、方形2主柱の竪穴建物のうち、壁周溝が廻る竪穴建物は、周溝に壁が立てられていたと想定し、壁立ちの構造・形式とした。

A仕上げ

竪穴建物は、仕上げによりABC各地域の違いを表すことにした。A地域の建物は、棟覆を古墳時代の豪族居館を写したとされる家屋文境や家形埴輪などに表現がみえ格式の高い建物に使用されたと考えられる網代(下地杉皮)とし、屋根は本葺きとし、葺足しを厚くすることにした。

BC地壊の建物の棟覆には網代を設けず、杉皮のままとし、葺足しは、B地域はA地域と同様程度、C地域はより薄くすることで、違いをもたせることにした。