07福岡歴史研究会講座4

 

弥生人の環境と風土       高島忠平

 

 最近、また、環境の保護に対する運動が広がっている。またというのは、l960年代から70年代にかけて環境保護運動が高まって、「地球上の爆発的な人口の増加は、資源の枯渇・自然は荒廃、人間は生きていけなくなる」。「それは、やがてやってくる」。といわれ、多くの生態学者によって、人間を含め地球の破滅がすぐ近くにやってきていると、終末論的に警鐘された。それが、人々の間でいつのまにか薄められて'きている。ところが、その間、人間による資源の浪費、自然破壊は加速しつつある。ヒトの環境は、宇宙や地球の途方もない歴史からすれぱ、塵ほどでもなかろう。我々の住む地球は、氷期の間の間氷期に時期

にすぎない。そのわずか一万数千年の間に、ヒトは、地球の環境を変えるまでに、文明を進化させてきた。その進化で自らの種だけではなくて地球上に生息するほかの種の存続まで滅ぽし、危うくしてきている。ヒトにそのような卓越した特権が与えられているのであろうか。今日の日本人の生活環境と基礎的枠組みをつくったとみられる縄文時代・弥生時代の人々、つまり私たちの祖先の営みが自然環境とどのようにかかわりながら生活をしてきたか、Γ環境」と「風土」をその観点からみてみる。

 

1、環境と世界観

 

 環境には、地球といった自然環境、人類が、自然とかかわりを持ちながら生活を営む中で創ってきた例えば「村(ムレ―群―)と里山、奥山」のような生活環境や破壊してきた生活環境つまり「風土」がある。そうしたことから言えば、歴史も環境といえる。つまり、我々の環境は歴史的に形成されてきたものなのである。

 

1)縄文時代の環境と世界観

 

 日本列島は、現在、沖縄から九州・本州・北海道と南北に長い島嶼の連続で、亜熱帯から暖温帯・冷温帯・亜寒帯の気候帯に属している。また、日本列島には、年間平均約1,760mmの降雨があり、どこにも森林がある。南と北では、気温の差があり、森林の樹相が異なっている。沖縄は多雨林、九州・本州西部はシイ・カシの常緑照葉樹林、本州中・北部の山岳地帯と北海道東部以外はブナ林の落葉広葉樹林、北海道東部は亜寒帯で常緑針葉樹林である。また、標高差でも植生・気候の差がある。

 

 こうした気候と植生の違いは、営まれるヒトの文化や生活様式も各地で異なっているが、今白の日本人の生活様式は、全体から見るとそう大きな違いはない。北海道でも稲作は行われているし、沖縄でも北海道で獲れた鮭が数日も経ずに食べることができる。列島の文化の進化は、列島の文化を画一化してきた。一万数千年前、氷河期が間氷期に入り、列島の温暖化が、南から始また。そして、縄文・弥生・古墳時代等を経る中で、今日のような列島の気候帯となった。

多雨林(亜熱帯帯)アコウ・ガジュマル・マングローブなと

照葉樹林(暖温/低山帯) (常緑広葉樹)シイ類・カシ類・クス・タブ・ツバキなど

落葉広葉樹林(冷温/山地帯) (緑林)ブナ・ミズナラ・カシワ・トチ・カエデ類・クルミなど

常緑針葉樹林(亜寒/亜高山帯) シラピソ・コメツガ・卜ドマツ・エゾマツなど

低木林・ツンドラ(寒/高山帯) (森林限界より高い所)ハイマツなど

 

 列島の自然環境のうち、なかでも照葉樹林は、日本列島の文化形成に大きな影響を与えている。とくに、縄文時代とそれに続く弥生時代の文化は、照葉樹林文化とも呼ぶべき特色をもつている。照葉樹林は、東アジアの暖温帯に、ブナやクスノキ科、ツバキ科などが主体の常緑広葉樹林が広がり、西ヒマヤラの中腹から東は日本列島の中南部にかけては光沢のある照葉樹林がある。この森林地帯は、自然や文化に共通性があるところから、佐々木高明が「照葉樹林文化」圏と名づけた。それは、雑穀農耕、コメを粒食、モチゴメを蒸す・搗く、魚食、魚醤、熟れ寿司、納豆、お茶、鵜飼、麹酒、歌垣、漆、絹と共通した文・化がある。

 

 縄文時代は、高度に発達した採集・狩猟社会であったとされている。こうした採集・狩猟社会では、人間を取り巻くすべてに霊的なものが存在し、人間生活に強い影響を与えるという精霊信仰が存在した。縄文時代にも精霊信仰は存在した。これを裏づけるように、男根状石製品、動物を象った土製品や、カエル、ヒト、サンショウウオ状の表現のある土器等が発見されている。土偶についても、女性を象ってはいるが、地母神など精霊を表したものだといえる。また、立柱や石のサークルは、精霊が依りつき、その祭儀の施設でもあった。これらは、言い換えれば、自分たちは自然界の一部であり、自然と共生していたということである。

 

 縄文時代の集落には、中心に墓を置き、それを取り囲むように環状に建物遺構が配置されているものが多く存在し、環状集落と呼称されている。

こうした墓を中心とした集落のあり方から、死者の世界と生者の世界を対比し結びつける独自の世界観が存在したことがうかがわれ、また遺体の手足を曲げて葬る屈葬と呼ばれ

る縄文時代の埋葬法は、死者に対する再生ヘの願いや恐れを表していると考えられている。これらのことから、縄文時代には死霊(死者の霊全般)に対する信仰が存在し、これに対する祭祀行為が行われたことが想定できる。

 

 また近年、秋田県の大湯環状列石や青森県の三内丸山遺跡で、夏至・冬至の日の出、日の入りと関連する遺構の方位性が存在することが指摘されるようになっており、縄文時代には天体の動き、自然を社会的に取り入れ、これと密接に関係する生活サイクルが存在していたと考えられる。

 

 2)弥生時代環境と風土

 

 弥生時代の森林を中心とした基本的自然環境は、縄文時代から引き継がれている。

 最初に土地ができて、草木類の植物が生じ、最終的な森林になるまでに植生はさまざまに変化する。コケが生え、次に草が生え、やがて低木が生え、日当たりを好むマツ・クリなどの陽樹が生える。その後、日陰でも成長するプナ・シイなど陰樹が生えてくる。陽樹は日当たりを求めて他ヘ移動する。そこには、最終的に陰樹だけの森(極相林)が残る。

鹿児島桜島の溶岩流のあと、最終的な森となるまでに約700年かかっていることがわかっている。


▲弥生時代の森林開発の図

@アカガシ・シイノキなどの暖地性樹木とスギのまじる自然植生

A樹木の伐採。火をつけて焼き払う

B草はら、二次林の発達。水田の開墾。

 

 

 

 人間の活動によっても、森林は姿を変える。アカマツは、木々の養分の極めて少ない土地に広がるので森林破壊のめやすともされている。水田稲作のため低地のハンノキなどの

樹木が伐採され、耕地となり、落ち葉や下草が肥料として用いられる。肥料が少なくなった森林はやがて滅び、アカマツがひろがる。焼畑や集落形成でも同じような事象が繰りか

される。それを、吉野ヶ里遺跡の調査例からみてみる。

 

3)吉野ヶ里の弥生人の自然環境

 

 吉野ヶ里の集落は、暖温帯常緑広葉樹林である アカガ・シイノキ・クスノキを中心とした針葉樹のモミ・コナラやクリ・ケヤキ・モチノキ・ユズリハ、ムクロジなどカミ生育している森林を開発して営まれた。イメージすると次のような植生となる。

 

@吉野ヶ里遺跡形成前の自然環境

 

〔低地〕: 低地は河川の活動によって堆積物の搬入を受ける氾濫低地であり、凹状に奥まった低地の前面に自然堤防状のバリヤが発達したところでは閉鎖的静水域となり、ハンノキ湿地が成立した。そのようなところでは、ハンノキをはじめ、湿地に繁茂した植物の遺体からなる未分解の泥炭が堆積した。湿地に繁茂していた植物群は、ハンノキのほか、サヤヌカグサ属(イネ科)、シダ類、カヤツリグサ科(多種)、ミクリ属、ホシクサ属、イグサ属、ミゾソバ、ミゾオトギリ、スミレ属、ミズユキノシタ、イヌコウジュ属、シソ属などである。

 

〔台地から山地) : 基本的にはアカガシとシイノキを主とする照葉樹林とコナラやクリを主とする落葉広葉樹が主要素となる森林埴生が成立していた。しかし、これらの要素は台地から山地にかけては幾分とも分布に偏りがあった。すなわち、吉野ケ里遺跡を含む台地ではシイノキやクスノキといった常緑広葉樹とコナラやクリといった落葉広葉樹が比較的日立つ森林埴生であった。これは、花粉群においてコナラが高率を占めること、弥生時代における木材利用においてクリ、シイノキ属、クスノキが日立ち、アカガシがそれほど日立たないことなどによる。一方、山地の森林植生はアカガシを主とした照葉樹林とモミ林が主体であったとみられる。これは吉野ヶ里台地の東側低地及び西側低地のいずれにおいても、他の木本類にくらべ、アカガシの花粉が少なく、遠方から定常的に花粉供給があったと見なせるからである。また、モミは、古墳時代以降に建築・器具顆として使用されており、山地域にモミ資源が潜在していたと考えられる

 

A弥生時代前期(紀元前45世紀)

 

〔低地〕: 低地では堆積物に明瞭な変化が現れ、ハンノキ湿地はヨシ湿地に急変した。これには、ジュズダマ属のような帰化植物を特異に随伴すること、また堆積物中には焼けた草本植物遺体の破片が非常に多く含まれることから、人間による低地への強い干渉を反映したものとみることができる。おそらくハンノキ湿地林に火入れ、焼失させ、開発が始まったことを意味すると思われる。西側低地ではハンノキが繁茂した地域においてもジュズダマ属が見出されるが、おそらくこうした植物群は開発に先行して、好適な環境湿地などに侵入していったと見られる。

〔台地から山地〕: 吉野ヶ里遺跡一帯では森林の主要素であったコナラ亜吊が急速に失われていった。そのあと、クワ科花粉が増大すること、ススキ属を含むウシクサ族が出現を始めることからコナラ亜属の伐採あとにはススキ野など比較的オープンな空間が広がっていったものと考えられる。クワ科花粉の増大は、ヤマグワの種子の産出があることから少なくともクワ栽培がその一因であることはほぼ間違いないと思われる。アサに近似の花粉も多数得られているが、標本同定を詰めなければならない。遠方飛来花粉が多いと判断されたアカガシ亜吊に大きな変動がみられないことから、山地の埴生が大きく変化することはなかったと考えられる。

 

B第2干渉と環境の変化(弥生時代後期)

 

〔低地〕: ヨシ属やカヤツリグサ科植物が急減し、イネの植物珪酸体やイネ科花粉が多量に存在することから水田稲作農耕が本格的に始まったといえる。水田稲作農耕は、分析対象とした地点が堆積物の保存によい湿地環境であったことと、堆積物の明瞭な変化に先行してイネが出現を開始しているので、このような限られた湿地以外ではすでに開始されていた可能性がある。つまり弥生前期から、すでに周辺の氾濫低地では、水田稲作農耕が本格的に始まっていたと考えられる。

 

 

〔台地から山地〕: 花粉分析ではクリやシイノキの検出が少なくなり、台地上から斜面にかけての広い範囲にわたってこれらが減少していった。原因は、建築部材や木製品では、クリ・シイノキともよく利用され、他の遺跡においても建築材や器具材として頻繁に用いられているところから考えられる。クワの出現が顕著となり、また、エノキやムクノキの出現が顕著になるので、台地上は広範囲に、吉野ヶ里遺跡だけでなく、北の山麓にも土地利用や森林資源の確保のための伐採が進み、ムクノキやエノキの二次林が形成されていったと考えられる。

 

1.植生タイプの抽出及びイメージ

基礎調査より、縄文時代後期から弥生時代後期にかけての吉野ヶ里地域の植生が推測された。

 低地から山地に書かけてての植生は人間の干渉の度合いによって、時代ごとに変化している。時代毎の植生イメージを次に掲げる。

 

 図2 4.植生イメージ図

 ■ 縄文時代後期〜弥生前期の初頃の植生

 ■ 弥生時代前期〜中期頃の植生

 ■ 弥生時代中期〜後期頃の植生

 ※常緑樹林…力シ、シイ簿の常緑樹を中心とした樹林。

  落葉樹林…エノキ、ムクノキ、クリ等の落葉樹を中心とした樹林。

 

3、弥生人の風土形成と祖霊信仰の生成

 

弥生時代また縄文時代の死霊に対する信仰に加えて、祖霊に対する信仰が芽生え、弥生時代の世界観を成重要な要素になっていったと考えられる。死者の霊全般に対する死霊の信仰に対し、祖霊信仰は、父系か母系かはともかく、特定の先行世代の死者が系譜的に現成員に連なり、現成員の生活に影響を及ぼすという観念がより明確であることである。これは、弥生時代の水稲農耕のように一定の土地ヘの永続的な営農といった継続労働が、ひとによる収穫物の占有、土地の占有へと進み、さらにそれをもたらした自分たちの先祖への畏敬・崇拝の観念が生じ、その社会化とともに、祖霊祭祀が確立した。

 

4、環境と考古学

 

 発掘された遺跡や遺物を研究の手段とする考古学とは、人類が過去において、文化を形成し、その結果が遺構・遺物として残されたものを、直接の資料として取り扱い、人類社会の歴史の変化・発展のあり方を探る学問である。

 

 文化とは、学問、信仰、芸術、倫理、法律、風習そしてその他に、社会の一員として人間が身につけるすべての能力と習慣からなる複合体である。かつ、ある一つの人々の集団が学習し、共有した行動様式であり、時間をかけて共有化されたヒ卜独自のものでもある。

 

 歴史と文化は、他の動物とは違った人間(ヒト)固有のプログラムである。

 

1)ヒトの出現と進化、そして退化と(旧石器時代―1万3千年以前)

 

 *直立歩行と大脳の発達。

  脳容積 猿人450ml、原人800l000ml、旧人1300ml、新人1400ml

 *信仰の成立・精神的世界の確立

  約3万年前、死者への献花。

 *文化の伝達

  言語、道具、コミュニケーシヨン。

 

2)縄文人の生業(縄文時代―13千年前〜2300年前)

 

2、世界的に農耕が成立、日本列島は山里林高度利用文化

 

1)縄文環境の成立

 

*1.3万年前、氷河期が終わり、地球が温暖化

*日本列島は、南からコナラ亜属など広葉樹の森を形成、シカ・イノシシなどが生息

*海は、海水面が上昇、内湾を形成、豊かな漁場

*食料の減少する夏・冬のため、貯蔵・保存加工技術が発達、アク抜き、石皿・土器

*狩猟・漁労道具の発達、石鏃・石槍・釣り針・魚網

*定住化、竪穴住居・掘立て柱建物、墓、貯蔵穴、炉

*自然環境との共生、日本列島的風土の形成、里山の形成。

*二次林の高度活用の文化、農耕の芽生え、

*縄文人の世界観、死霊。精霊信仰

*縄文人の造形

 

3)弥生人の生業(弥生時代―2300年前〜1700年前)

*水稲農業の開始

 

畑・水田を中心とした食料生産。

 

 ムラの内部やその周辺には畑や水田が広がっている。水田は西の貝川付近の低地と、東の田手川付近の低地に作られ、畑はΓ南のムラ」の丘陵の東西や北に入り込む谷部の斜面に設けられている。水田では稲が栽培され、畑では稲、ソバ、オオムギ、マメ類、ウリ類、シソ、アワ、ヒゴ、キビ、マクワウリなどが栽培され、さらにその周囲にはヤマモモ、クルミ、ノブドウ、クワ、コナラ、グミ、モモ、クリ、ウメ、アンズ、ナシなどの果樹が植えられ、或いは生育していた。

*渡来人

 長身長 男性164cm、女性152cm。縄文人男性157cm、女性l50cm以下。

*労働集約型の複合農業経営

 水稲・陸稲他畑作・小規模。

*戦争の恒常化

 環壕集落・武器武具の発達。

*祖霊信仰の成立

首長の墓。

*技術革新(石器から金属器へ・ガラス・絹織物)

青銅器・鉄器など。

*公設の市の成立

交易の発達