原坂さんの研究成果が披露されました。

<講義の配布資料>______________________

孫 文 と 日 本

<前編>

(1866-1898 慶応2―明治31)

客家   その昔華北から流れてきた上流の漢族の子孫で、載育熱心で向上心に富む。

孫眉   孫文の十二歳上の兄で生涯孫文を援助する。

陳少白  西医学院での三歳下の同級生で、最後まで孫文についてゆく。

カン卜リー博士 孫文の学んだ酉医学院の教授で、ロンドンでも世話になる。

宮崎滔天 孫文を生涯援け、孫文との関わりを自伝「三十三年の夢」に記す。

犬養 毅 滔天に紹介され孫文に協力する。後に総理になり515事件で暗殺される。

頭山 満 玄洋社の実質的リーグー。在野の実力者でアジア主義者。

康有為  清朝の改良主義者。戊戌の政変で日本へ亡命。

 

 孫文は1866(慶応2)、アヘン戦争の24年後、マカオと広州の間にある香山県で、客家の中農の三男として生まれました。

 そこで幼い頃から、アヘン戦争におけるイギリスの悪ドサや清朝のだらしなさを否応無く聞かされて来ました。

 十三歳の年にハワイで成功していた兄の孫眉の元に行きます。

 それから孫文はホノルルのハイスクールに通い優秀な成績を修め、特に文法の成績が2番でハワイの王様から表彰されます。続いてオアフカレッジに入りますが、そこで孫文がキリスト教に夢中になり、兄の孫眉はそれを見て、弟は中国人であることを忘れて

しまうのではないかと心配し、急遽大学をやめさせ、広東へ帰してしまいます。

 しかし、孫眉の偉いところは、その後もずっと弟に学資を送り続けたことです。

 この孫眉こそ孫文をある時期から、弟は本当に中国を救えるのではないかと思うようになり、ハワイで築いた財産を注ぎ込み、ついには身上をつぶしてしまうのです。

 広東に帰った後、孫文は広東で親の勧めで結婚し、一男二女をもうけ、またキリスト教の洗礼を受けました。

 それから香港の西医学院に学ぴ、中国で初の医学博士を取得します。

 同時に医学の勉強の傍ら、学友の陳少白らと「四大寇(したいこう―四大ワル)」と呼ばれた四人組のグループを組み、時勢や革命について熱く論じ合いました。

 また反清復明(はんしんふくみん)の秘密結社三合会に入り、アウトロウの世界にも顔を広げて行きます。このアウトロウとも隔たり無く付き合う性格が、孫文の世界を広げて行きます。

 西医学院を卒業し、マカオで開業したのですが、孫文は貧しい人からはお金を殆んど取らず、金持ちからはお金を貰う代わりにその分丁寧に診ると、しかもそれをさりげなく、自然にこなしたので病院は驚異的に流行りました。

 ところがポルトガル人の医者たちに妬まれ、妨害されたので、孫文は馬鹿馬鹿しくなり病院を閉じます。

 その後広州に渡り学生時代の仲間を集め、革命談義にふけり、やがてハワイへ渡り革命団体『興中会』を起こし、孫眉の友人の華僑をはじめ、世界中に同志を募って行きます。

 やがて広州に帰り、仲間と一緒に、広州起義を起こしますが(起義とは蜂起すなわち謀叛のことです)、その直前に裏切り者が出て通報され、取り止めることになりました。

 しかし、この時の孫文は実に落ち着いたもので、まず連絡に使った電報や名簿を焼かせ、爆弾を隠し、明日来る予定の援軍に中止の報せをさせた上で全員に食事を取らせ、自分も腹ごしらえをすると、皆に思いのまま逃げるように言い渡し、自分自身はクーリー(苦カ、中国やインドの最下層労働者)の姿に変え、群衆の中に紛れ込みました。

 この孫文の沈着冷静な振る舞いは、革命の指導者としての地位を不動のものにしました。

 その後陳少白とで香港で落ち合って、いっしょに横浜に渡り日本での興中会の拠点を作り、それを陳少白にゆだね、ハワイに寄った後アメリカ大陸経由でイギリスに渡り、西医学院時代の恩師カントリー博士の屋敷の近くに下宿をします。

 ある日、その屋敷の近くにあった清国公使館に拉致されます。

 此のとき、カントリー博士の必死の働きで救出され、九死に一生を得ました。

 その後博士の屋敷に引き取られ、この拉致事件のことを書いた「ロンドン被難記」という孫文にとって最初の著書を出版し、それはヨーロッパとアメリカでベストセラーになり、革命家孫文の名を世界中に知らしめました。

 拉致されたあとの孫文は毎日、大英博物館の図書館に通い、猛烈な読書生活をし、その猛読振りはカントリー博士や、図書館のスタッフを驚かせました。

 当時この図書館での猛読書家としては、奇しくも同じ革命家レーニン、ガンジーの名が上げられております。

 レーニンは専ら労働書、経済書、時に歴史書に限られ寸ガンジーは宗教書、哲学書に集中していたそうです。

 ところが孫文の場合、生物学をはじめ鉄道工学、歴史、哲学、経済、政治と、非常に広範囲に及んでいたそうです。この読書癖は東京でもどこでも見られ、孫文の風景になりました。

 これらの読書こそ孫文の革命理論の元になって行くのです。

 こうやって七ヶ月みっちり読書すると、いよいよ東京に出て、本格的に革命活動に乗り出します。

 孫文は32歳の年、ロンドンを発ち横浜に戻った孫文は、興中会の活動を託していた陳少白の紹介で、宮崎滔天と運命の出遭いをします。

 そこで孫文は滔天にアヘン戦争以来の「イギリス帝国主義の悪どさ」や「清朝政府のだらしなさ」について話し、中国の尊厳を取り戻す為に、革命の必要性を熱く語るのです。滔天は孫文の情熱と迫力にすっかり感動し、その晩すぐに玄洋社の平山周と一緒に犬養藪の崖敷に案内しました。

 犬養も孫文の話に痛く感じ入り、今後の援助を約束します。

 その数日後、滔天は孫文を当時在野の最大の実力者であった頭山満に紹介します。

 頭山は孫文をひと目見るなり、これはただ者ではないと思うと同時に、自分らと同じ気質を感じ、平岡浩太郎、安川敬一郎、杉山茂丸、内田良平等を紹介し、それがやがて三百名以上の人脈に広がってまいります。

 

<後編>

1898-1925 明治30−大正14

章炳燐  革命の理論家で「光復会」を結成。「同盟会」の結成にも同意するが、後に孫文と対立。

黄興   人望のある革命家で「華輿会」を結成。「同盟会」の結成にも同意し、孫文には最後まで協力。

宗慶齢  宗財閥の次女で孫文の二度目の妻で、才色兼備。

袁世凱  日清戦争で敗れた北洋軍を立て直したが、清朝に警戒され追放されていた。

宋教仁  孫文に総統の地位を譲られるが、孫文の後継者である宋教仁を暗殺した。同盟会の若手のリーダーで孫文に総裁の地位を譲られるが、袁世凱によって暗殺される。

 この一午後の明治31年、東京だ戊戌の政変で追われた康有為が亡命して来ます。

 戊戌の政変とは康有為が光緒帝の下で、清朝を内部から改革しようとしたので、古狸の老臣と実力者である酉太后の弾圧を受けた事件です。

 孫文が腐り果てた清王朝を倒し、新しい共和の民主国家を建てようと思っていた革命家なのに対し、康有為は西太后が死ぬのを待って、再び光緒帝の元で清王朝の改革を計り、中国の独立を達成しようと言う、いわば清の王朝を守りたい保皇派でした。

 さらに、康有為は例えば科拳という難しい官吏の登用試験において合格したエリートにしか政治を論じる資格はないと考えていました。

 それに対し、孫文は科挙の試験などは意味が無く、むしろ青少年の柔らかい頭を駄目にする有害なものであり、科挙の試載に合格したエリートは地位や名誉にこだわる余り、信条に乏しく変わり身が早くて信用出来ないと、強く思っていました。

 それで孫文が日本でも野人の宮崎滔天や、在野の実力者頭山満、野党の闘士犬養毅みたいな在野の人達と気分的に馴染み易かったのが良く分かります。

 どう考えても、孫文と康有為の二人は合う訳がないのです。

 しかし、滔天や犬養、頭山らは何とか二人の手を結ばせ、協力をさせようとしましたが、特に康有為はどうしても孫文に会おうとしませんでした。

東京には孫文と並んで、革命の三羽烏と呼ばれた理論家の章炳燐、人望のあった黄興がいま した。

 この三人の三つのグループを合併し、孫文を会長とする『同盟会』を立ち上げ、そこで会報『民報』を発行し、孫文はこの民報で民族、民権、民生の三民主義を発表します。

 ところが、その頃清国政府が日本政府に孫文を国外へ追放するよう要請して来ました。

 政府はそれに答えるべく、穏便に退去してもらうことにして、孫文に五千円の餞別を贈り、孫文はその中から二千円だけ民報社の経営に残して出国しました。

 その後また株成金の鈴木久五郎も出国間際に一万円贈りました。

 ところが、章炳燐はその事を怒りΓ孫文は民報を売り渡した」と激しく非難し、宋教仁や平山周、北一輝らを誘い、さらに章炳燐は「孫文の罪行」と題するパンフレットを

印刷して日本、香港、シンガポールほか南洋の各地に配ったのです。

 その上孫文を会長の席から降ろし、代わりに黄興を会長に推薦しましたが、黄興は蜂起を何度か企てた事もあって、革命資金にかなり理解があり章燗炳の話には乗らず、孫

文をそれまで通り支持しましたので、黄興に近い宋教仁も孫文支持に戻りました。

 当の孫文は馬鹿馬鹿しく思い放って措いたのですが、章炳燐が余りにもしつこいため、パリの華僑呉維暉に手紙を送り、呉維暉の出している雑誌「新世紀」で悪質なデマを解消してくれるよう頼みました。

 その中で、孫文は自分の革命のために協力を惜しまず全財産を使い果たし破産した兄孫眉のことを語り、自分は利益を得るために活動しているのではない、と述べています。

 事実、孫文の二番目の妻宋慶齢は、孫文の余りの質素さと、金銭に対しての執着の無さにとても驚いた、と伝えられています。

 19111010日、辛亥革命が起きた日、孫文はアメリカのコロラド州のデンバーにいました。

 辛亥革命とは、この日武昌で起きた蜂起が全国に波及し、清朝政府を倒した歴史的な事件です。この際革命の指導者である孫文はあわてて帰国せず、まず英国ヘ渡ってグレイ外相に会い、「革命政府は清朝が諸外国と結んだ条約を引き継ぐこと」を伝え、次のような申し出を致しました。

 「清朝政府に対する一切の借款の停止や、日本が清朝への援助を停止すること、さらにイギリスの植民地政府の孫文追放令の取り消し」です。これらの了解を得ると、フランスでも同じような交渉をし、マルセイユ経由でこの年の1229日上海へ帰り、黄興らの熱烈な歓迎を受けます。その翌日の30日、南京に17省の代表が集まり161で孫文は臨時総統に選ばれました。

 ところが一ヶ月も経たないうち、漢口と隣り合わせの漢陽が清朝の遺臣袁世凱によって攻め落とされました。

 袁世凱は日清戦争でボロボロになっていた李鴻章の北洋軍を継ぐや、ドイツより教官を招き近代的な軍に作り換え、その後も日夜訓練を怠らなかった天才的な武将です。

 しかし袁世凱は戊戌の改革の時、康有為のことを西太后の側近に密告したことで、世間の評判良くありませんでした。

 その後袁世凱は、袁世凱のカを恐れた光緒帝の弟の醇親王から敬遠され、清朝から追放されていたので、袁世凱は清王朝に対する忠誠心をすっかり失っていました。

 孫文は袁世凱を支援していませんでしたが、残念なことに孫文や黄興は自前の軍隊を持たなかったので、断腸の思いで袁世凱に政権を譲らざるを得なかったのです。

 その際孫文は「新政府の首都を南京に定め、参議院に袁世凱と同じ権限を与える」ことやその外袁世凱の独裁を防ぐ為のあらゆる方法を提示した上で、孫文は正式に政権を袁世凱に譲ったのです。

 しかし老練な袁世凱は巧みにこれらの条件を反故にしてゆきました。

 例えぱ、北京の近くで誰かに反乱を起こさせ、それを自ら鎮圧し、自分が北京にいなくては治まらない事を示し、ついに北京を離れず南京には行きませんでした。

 孫文はこういう見えすいた芝居をする袁世凱にほとほと嫌気がさし、政権の第一線から身を引き、鉄道相となり全国の鉄道の調査という名目で国中を見て廻りました。

 どこヘ行っても大歓迎を受け、孫文の人気は衰えることがありませんでした。

 また同盟会を国民党と改め、その総裁に就任していましたが、その総裁の地位も黄興に近い若手の指導者宋教仁に譲り、全国を廻った後、日本にもやって来ました。

 日本では、日本で面倒を見た孫文がナンバー2として帰って来た、ということで、官民共に沸き返るような人気の中、新橋駅では二千人を超える各界の要人や留学生に迎えられました。

 犬養や頭山とも会談、大隈重信首相主催の晩餐会に招かれ、牧野伸顕外相、山県有朋、桂太郎らの要人とも歓談しました。

 その後、博多に寄って、財政的に随分支援を受けていた玄洋社の初代会長.平岡浩太郎の墓を詣で、その足で玄洋社に立ち寄ります。

 そこでは玄洋社の慣習に従って、出されたのは粗茶一杯でしたが、孫文に取っては、その素朴な飾り気のない歓待が返って嬉しかったと語っています。

 そうこうしているうちに、宋教仁が上海で殺された、という報せが入り、それが租界の警察の捜査で袁世凱の差し向けた殺し屋による、という事まで分かりました。

 孫文は急きょ上海に帰り、黄興らと協議してΓ反袁」の烽火を挙げ、猛烈な反衰運動を始めます。当然、袁世凱は租界の政府に向かって孫文の国外退去を求めました。

 それで孫文は追放され、日本にやって来ましたが、今度は日本政府が袁世凱の要請を受け入れ、神戸の港に孫文を留めたまま上陸させません。

 孫文に同行していた宮崎滔天は、ここは頭山満に頼む以外に救出する方法はないと思い、電報を打ち、援けを求め増す。頭山は部下を派遣し孫文を連れ出し頭山の赤坂の霊南坂の屋敷隣家の海妻邸にかくまい、玄洋社の猛者数人を選び、昼夜を分かたず交代で見張らせました。

 袁世凱は釜山経由で二人の殺し屋を差し向けたのですが、殺し屋の付け入る隙はありませんでした。

 守衛に当たった玄洋社の若者達は、この時孫文にもしもの事があったら切腹をしなくてはならない、と本気で思っていたそうです。

 孫文の呼びかけが功をなして、本国では反衰運動が益々盛んになり、19166月袁世凱は悶々の内に病に倒れ、亡くなりました。その後袁世凱の弟子、あるいはその亜流の軍閥が田舎芝居さながらの権力争いを演じます。

 孫文は蒋介石を日本の士官学校へ学ばせたりして、着々と軍備を整えて行き、やがて北京を目指し、北伐'\向かう途中、神戸に寄り頭山満と会談し、神戸高等女学校の講堂で有名な「大アジア主義」の演説をした後日本を離れました。

 その三ヵ月余り後、北京の病院に肝臓癌で入院、「革命未だならず」という言葉を遺して他界しました。 ()

 

<年譜>

1842(天宝13)     南京条約(アヘン戦争による)

1866(慶応 2)   1歳 孫文誕生(11月広東省香山県(中山県)翠享村

1872(明治 5)   7歳 私塾ヘ通い始め13歳で一応四書五経を読終える

1879(明治12)  14歳 兄に招かれ6月ハワイのハイスクールヘ入学

1882(明治15)  17歳 同校卒業オアフカレッジ入学

1883(明治16)  18歳 キリスト教に夢中になり、兄の命令で帰国

1884(明治17)  19歳 キリスト教の洗礼を受ける。5月盧慕貞と結婚

1887(明治20)  22歳 酉医書院へ入学、中国初の医学博士となる

1890(明治23)  25歳 級友の陳少白、尤列、楊鶴齢と四大寇(したいこう―四大ワル)を組み、時事や革命を論じ合う―アウトロウの反清復明の秘密結社三合会ヘ入会

1892(明治25)  27歳 西医書院を1番で卒業、マカオで開業

1893(明治26)  28歳 マカオから広州に移り四大寇らと政治改革を話し合うと同時に、秘密結社の会頭と連絡を取る

1894(明治27)  29歳 ハワイ渡り、ホノルルで革命団体興中会を結成

1895(明治28)  30歳 広州起義を準備中、洩れて失敗。横浜ヘ寄り、興中会分会を組織、陳少白に託す。ハワイで活動

1896(明治29)  31歳 アメリカ経由でロンドンに行き、清国公使館に拉致されるが、カントリー博士に救助される。大英博物館の図書館へ通い猛読

1897(明治30)  32歳 カナダ経由で横浜へゆき宮崎滔沿天に会う。滔天の紹介で犬養毅、頭山満等に会い人脈をひろげる

1905(明治38)  40歳 孫文の興中会、章炳燐の光復会、黄興の華興会の三派が合同して同盟会発足して機関紙の民法発刊

1907(明治40)  42歳 清国の要請で日本政府より5千円、鈴木商店より1万円の餞別を受け国外退去を命ぜられる。章炳燐らがこれを「民報を売った」と批判

1911(明治44)  46歳 1010日辛亥革命、アメリカより英仏経由で帰国、1229日大総統に選出される

1912(明治45)  47歳 4月臨時大総統を辞任、袁世凱に譲る。8月同盟会を国民党に改組、総統となるが宋教仁に譲り、鉄道相となり全国を廻り、来日。大歓迎を受ける

1913(大正 2)  48歳 宋教仁が袁世凱に暗殺され、反袁の蜂火を上げ、日本へ亡命、頭山満に匿われる。袁をさらに追及

1916(大正 5)  51歳 3月袁世凱は帝政取り消しを宣言して、6月病死

1924'25(大正13,14)  北伐の途中神戸に寄り大アジア演説、翌三月没

l942(昭和17)10月   米英中国の治外法権撤廃声明(不平等条約の撤廃)