飛鳥文化の研究

   1.古代宮都の変遷         

はじめにー  
ここ数年、飛鳥で、斉明朝の遺跡がつぎつぎに発掘され、この時期『日本書紀』に書かれていることが歴史上の事実であることが、いよいよはっきりしてきました。


迎賓館とみられる石神遺跡、水落遺跡の漏刻台(水時計)、亀形石造物を中心とした湧水施設、酒船石のある丘をかこむ大規模な石垣、飛鳥川近くの広大な池(飛鳥京跡苑池遺跡)、甘樫丘の蘇我蝦夷・入鹿の邸宅の跡かとみられる7世紀代の焼けた建物跡など皆、斉明朝の遺跡です。「狂心(たぶれこころ)の渠(みぞ)」(斉明紀)や百済滅亡をつたえる『三国史記』、白村江の戦いの記述などに立ち戻りつつ、日本の歴史学と考古学がたどり着いた地平を受講者の皆さんといっしょに展望したいと思います。

私のひとり相撲にならないように、私が作るテキスト(このホームページに連載)とは別に、前記の新しい発掘成果をとりいれて飛鳥を考察した4冊の新書を紹介します。歴史事実の確認は、いくつもの学説を知るのが第一歩です。


@    千田稔『飛鳥―水の王朝』中公新書 780円
A    和田萃『飛鳥―歴史と風土を歩く―』岩波新書 740円
B   
水谷千秋『謎の豪族 蘇我氏』 文春新書 740円
C 遠山美都男『白村江 古代東アジア大戦の謎』講談社現代新書 700円



古代宮都略年表 (岸俊男「日本の古代宮都」NHK大学 1981年)

年代   天皇    大  和          摂津・河内・山城・近江

593  推古  豊浦宮・小墾田宮

     舒明  飛鳥岡本宮・田中宮・厩坂宮・百済宮

     皇極  小墾田宮・飛鳥板蓋宮

645  孝徳  (飛鳥川辺行宮)          難波長柄豊碕宮

     斉明  飛鳥板蓋宮・飛鳥川原宮・後飛鳥岡本宮

     天智                    近江大津宮

672  天武  島宮・岡本宮・飛鳥浄御原宮      難波京

     持統  飛鳥浄御原宮・藤原京

697  文武         藤原京

707  元明         平城京

まとめ

1.「推古天皇の豊浦宮・小墾田宮から天武天皇の浄御原宮に至る七世紀の約100年間はいわゆる飛鳥、それも香具山の南から神奈備山に至る本来の「飛鳥」の地に集中的に宮室が営まれた。その間孝徳朝に難波へ、天智朝に近江へ一時遷都したが、その期間は前後わずか十五年に満たないし、遷都の間も旧宮の板蓋宮・後岡本宮は廃されることなく、留守司が置かれ、倭京への遷都とともにいずれも直ちに再使用されている。」(岸俊男「日本の古代宮都」1981年)

2.近年の伝飛鳥板蓋宮跡や藤原京西端の「土橋遺跡」の発掘で、飛鳥の諸宮の官衙の実態が明らかになってきている。「伝飛鳥板蓋宮には、内郭と呼んでいる長方形の区画と、その東南にエビノコ郭と呼んでいる区画があるが、最近の調査でこれらの構造がかなり具体的に知られるようになった。内郭では、南北10間・東西二間の建物が二棟並んで建っていたことを確実にした。左右対称と見られるから西南隅にも同様な建物があるのであろう。その結果、内郭は、南辺の中央に門があり、それを入ると東西七間・南北四間の東西棟の建物がありその左右に前述の建物が配置されていたことになる。」(亀田博「伝飛鳥板蓋宮跡調査の近況」『季刊・明日香風』58号)

2.ヤマト王権の宮・記紀の伝承地

 天皇    古事記     日本書紀
 神武  畝火之白橿原宮   畝傍橿原宮
 綏靖  葛城高岡宮    葛城高丘宮 
 安寧  片塩浮穴宮   片塩浮穴宮
 懿徳  軽之境岡宮   軽曲峡宮
 孝昭   葛城腋上宮   腋上池心宮
 孝安  葛城室之秋津嶋宮  室秋津嶋宮
 孝霊  黒田盧戸宮  黒田盧戸宮
 孝元  軽之堺原宮  軽境原宮
 開化  春日之伊邪河宮  春日卒川宮
 崇神  師木水垣宮  磯城瑞籠宮
 垂仁  師木玉垣宮  纏向珠城宮
 景行  纏向之日代宮  纏向日代宮
 成務  志賀高穴穂宮  
 仲哀 穴門之豊浦宮・筑紫之謌志比宮 穴門豊浦宮・橿日宮
 応神  軽嶋之明宮         明宮 
 仁徳  難波之高津宮  難波高津宮  
 履中  伊波礼之若桜宮  磐余稚桜宮
 反正  多治比之芝垣宮  丹比柴垣宮
 允恭  遠飛鳥宮  
 安康  石上之穴穂宮  石上穴穂宮
 雄略  長谷朝倉宮  泊瀬朝倉宮
 清寧  伊波礼之甕栗宮  磐余甕栗宮  
 顕宗  近飛鳥宮  近飛鳥八釣
 仁賢  石上広高  石上広高宮
 武烈  長谷之列木  泊瀬列城宮
 継体  伊波礼之玉穂宮  磐余玉穂宮
 安閑  勾之金箸宮  勾金橋宮
 宣化  檜隅之廬入野宮  檜隅廬入野宮
 欣明  師木嶋大宮  磯城嶋金刺宮
 敏達  他田宮  訳語田幸玉宮
 用明  池辺宮  磐余池辺双槻宮
 崇峻  倉崎柴垣宮  倉梯宮

 推古  小治田宮  小懇田宮

とめ
1.この表をみると、宮名の表記法にやや相違のあるものもあるが、『古事記』と『日本書記』は、各天皇がそこに常居して天下を統治した宮室の所在に関する限り、ほとんど一致している。こうした点から『古事記』や『日本書記』が素材とした「帝紀」には、歴代天皇について宮名の記載があったと考えられている。しかしだからといって、これらの記載がすべて史実を伝えたものとは限らない。とくにその実在性について疑問のある初期の天皇に関しては、上記の表のような宮室について、ただちにその所在を認めるわけにはいかない。
次に応神ころ以後の宮名を一覧すると、石上、磯城、磐余、訳語田、倉梯、泊瀬というように、大和の三輪山の周辺に集中していることが知られる。このように5・6世紀にヤマト王権の大王の宮が奈良盆地中東部、三輪山の周辺、つまり狭義の「ヤマト」の地域に主として営まれたことは史実として認めてよいように思う。
 しかしこれらの宮はどれ一つとしてその遺跡は検出されていない。したがってこうした古代ヤマト王権の宮室がどの程度の規模のものでまたどのような構造
もつものか明らかでない。( 岸 俊男「日本の古代宮都」1981年)

2.私の意見 岸氏は「とくにその実在性について疑問のある初期の天皇に関しては、上記の表のような宮室について、ただちにその所在を認めるわけにはいかない」としている。これに相当するのは、応神天皇以前のヤマト王権の「天皇」の宮である。神武の畝火之白橿原宮(畝傍橿原宮)が『古事記』『日本書記』編纂時(8世紀前葉)の述作であり、神武陵と橿原神宮が幕末から明治の造作であることも周知の歴史的事実である。綏靖から開化までは「欠史八代」で、帝記だけしか記述していない。崇神から仲哀、神功皇后までの記述も神話伝承の世界であって、私も「上記の表のような宮室について、ただちにその所在を認めるわけにはいかない」ことは言うまでもない。それでは応神以後の宮名が三輪山周辺にあったという記紀の記載を、「史実として認めてよい」であろうか。「どれ一つとしてその遺跡は検出されていない」のであるから歴史資料としては扱えないし、「史実」とするには問題がありすぎるだろう。三輪山周辺にあった「石上、磯城、磐余、訳語田、倉梯、泊瀬」などの地名は、記・紀が編纂された頃も存在したであろうから、それらの地名を根拠にしてヤマト王権の大王の宮の存在を「史実」とするわけにはいかない。歴史上の事実は神話・伝承で証明できないことは、明治以来の近代歴史学の鉄則である。歴史資料・史実は、やはり遺跡の検出が必要であろう。

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飛鳥の開拓者・渡来人

『古事記』や『日本書紀』あるいはその後の史書に記す渡来系氏族の伝承や実際に残る地名などから、大和南部の地は、河内とならんで渡来人多く住した里であったことが知られている。(巽淳一郎「飛鳥の開拓者・渡来人の軌跡
『明日香風』62号)

韓式土器と陶質土器


渡来人・帰化人の存在を物語る遺物の一つが、わが国の土師器(はじき)に相当する軟質な土器で、韓式土器と言われている。ほかに須恵器のルーツである硬質で灰色の陶質土器がある。飛鳥で漢式土器が集中している地域は、飛鳥寺・飛鳥寺西の広場・水落遺跡がある真神原の一帯である。(巽)

真神原に入植した渡来人は、雄略紀七年(463)条に「東漢直・掬に命じて今来の漢の陶部・高貴、鞍部・賢貴、畫部・因斯羅我、錦部・定安那錦
、訳語・卯安那等を上桃原、下桃原、真神原の三所に遷し居らしむ」と書かれている。(奥野) 

陶質土器・韓式土器

雷丘から小山にかけての東方、奥山に向かう地域にも、七世紀になってから谷間を埋めて平らに造成したことが従前の調査で判明している。平成一年に実施した山田道の道路拡張工事では、河川跡と両岸に掘立柱建物と竪穴住居址を検出した。その上 ・中層から布留式の新しい段階の土師器とともに、韓式土器(丸底甕・小型平底甕・甑)、陶質土器もしくは初期須恵器とみられる有蓋高杯、把手付鉢、条蓆文叩き甕、高杯などが出土した。(巽)
韓式土器

後に藤原京となる地域では、主として飛鳥川東岸に分布集中域がみられる。一つは、藤原京西南部、橿原市四分から飛騨の地域であり、もう一つは香具山の西麓の木の本から高殿にかけた一帯である。現在、奈良国立文化財研究所の庁舎が立っている在京六条三坊下層から数棟の竪穴住居跡を検出、その埋め土から韓式土器の甕、甑、瓦質土器の壷蓋が出土しており、渡来系住民の定住地の一つに数えられる。
このほか藤原京域では、飛鳥川西岸地域の四条大田中遺跡、豊浦寺、和田廃寺の周辺からも韓式土器が出土している。
韓式土器の分布から帰化人の入植状況をみると、彼らはそのころあまり開発が進んでいなかった地域に入植したことは明らかである。(巽)  
韓式土器

出土文字資料と国家論 
 最近の古代国家論は、理論的枠組みよりも、個別の
資料を通じて進展しているように思われる.。とくに近年、注目されている資料は木簡である。
 奈良県明日香村に所在する石神遺跡から、「三野国ム下評大山五十戸」と釈読できる乙丑年(天智4=665)の木簡が発見された。それまで、令制国につながる国は、天武13年(684)頃に成立したとみる見解が通説となっていたのだが、それを20年も遡る一次資料が発見されたのである。もちろん、列島の広い範囲にわたって「国」が成立していたのか否か、また、もし、成立していたとしても、令制国と同質の国なのかは、今後とも吟味する必要があるが、従来の定説を覆す発見であったことは事実である。
 また、この木簡に、さらに重要な意味を語らせる研究もある。最近、石神遺跡をはじめとする飛鳥地域の遺跡から、「五十戸」を記した木簡が多数発見されるようになった。これにより、大宝律令施行以前の評制下に、後の「里」に先行する「五十戸」制が敷かれていたことが判明し、さらに天武10年(681)から天武12年頃に「里」に改称されたことも推測できるようになった。
 
(川尻秋生「古代国家の成立ー国家の発生と社会ー」『季刊・考古学』98号)
飛鳥板蓋宮跡・藤原京

3.大和の中の朝鮮文化

はじめに
日本と朝鮮半島をはじめとする大陸との交流は、私たちの主食であるお米の栽培技術などが縄文時代以降大陸から伝わった文化であるように、遥か遠い昔から連綿と続くものであり日本文化の形成に多大なる影響を与えてきました。中でも古墳時代中期以降には「倭の五王」と呼ばれる日本の大王が中国に朝貢し、朝鮮半島での軍事的優越権を確保するため対外交渉を活発に行なっていた時期がありました。またこの時期は高句麗・新羅が勢力を伸ばし、日本と親交のあった百済や伽耶諸国が衰退の道を辿るといった朝鮮半島内部の情勢の不安定さも重なり、国を追われたたくさんの人々が日本に渡来した時期でもありました。このことは『日本書紀』応神天皇の条に阿知使主(あちのおうみ)、弓月君(ゆずきのきみ)、王仁(わに)など百済の王族と縁のある人物が渡来したことが記されていることからもわかります。なお渡来人は窯業 ・金工・鉄器生産や埋葬方法に関する新しい技術や大陸系文物をこの時期日本に数多くもたらしました。
(『大陸文化と渡来人ー奈良盆地南部における渡来系集団の動向ー』桜井市埋蔵文化財センターより)

飛鳥地域(貝吹山周辺と橿原地域)

清水谷遺跡は高市郡高取町大字清水谷にある集落遺跡です。ここからは大壁建物が全部で5棟検出されました。大壁建物2(図)は1辺約13.5mの方形建物で、現在の床暖房に通じるオンドルと見られる遺構をもっていました。


磯城・桜井地域
伴堂東遺跡は、磯城郡三宅町にある古墳時代中期〜鎌倉時代の複合遺跡です。古墳時代中期には、韓式土器や初期須恵器が出土します。応神紀七年条の韓人池造営の記事を踏まえて、渡来人が当地の開発に関わったと考えられています。

安倍寺遺跡は、古代豪族・安倍氏の氏寺として創建された安倍寺をふくむ遺跡です。住居の中には作り付けの竈(かまど)があり、鞴(ふいご)羽口、鉄滓や韓式土器が出土し、ここで活動していた工人が渡来人だったと推定されています
飛鳥地域(清水谷遺跡)
大壁作りというのは、建物の周りに掘った溝のなかに主柱とよばれる太い柱を立て、その主柱と主柱の間に間柱と呼ばれる細い柱を3〜4本たて、小舞と呼ばれる細竹を横にわたして土壁を塗った、新来の建物です。
葛城地域(南郷遺跡群)
南郷遺跡群は御所(ごせ)市南郷一帯にある、金剛・葛城山系東麓に立地します。この遺跡は約1km四方にわたる広大な遺跡群で、古墳時代中期にその最盛期を迎えています。遺跡内には北端に居館状遺構、中央部に大壁建物や掘立建物ならび、南端には倉庫群や工房に加え、導水施設や大型建物からなる祭祀空間がありました。工房跡からは鍛造鉄片、鉄滓、ガラス滓、鹿角、銅滓など我出土し、先端技術に精通した渡来人が集住していたことがうかがわれます


4. 5〜7世紀の東アジアと移民

 古墳時代後期(5〜6世紀)には高句麗・百済・新羅三国間の抗争に加えて、中国の統一を果たした隋・唐が韓半島に遠征をかさね、約200にわたる征服戦争が続いた。隋は文帝による598年の高句麗遠征、煬帝による611614年の高句麗遠征があったが、高句麗がよくしのいで反撃し、この遠征失敗が原因で隋は滅亡した。代わった唐は太宗による645年の高句麗遠征、高宗による660年、668年の二度にわたる新羅・高句麗同盟軍による遠征で百済が滅亡した。唐軍は百済の義慈王と太子隆をはじめ、一万二千人の人民を捕虜にして洛陽に連れ去った。つづいて668年には高句麗も滅亡した。

 韓半島では、新羅による伽耶の征服(562年)につづき、百済・高句麗があいつぎ滅びた。このため倭国と政治的つながりをもってきた百済・伽耶からは新天地を求めた氏族が相次いで倭国に移住した。5〜6世紀に発展した採鉱冶金・鉄精錬・硬質土器(須恵器)・寺院建築・造船・馬具製作・牧馬・大池溝の堤防・感慨排水などの土木技術や乾田農法などみな三国からの移住民が伝えてくれた最新の技術・文化である。また文字や教典をはじめとする諸学問・仏教などが百済・高句麗・新羅が国として派遣した博士・僧侶の手によつて普及した。このことは韓国では、中学校の歴史教科書にも書かれている歴史認識である。倭国の各地に移住してきた氏族の歴史として本論で論述する。

 また、古墳時代後期から飛鳥時代(6〜7世紀)の移住民は、故国がすでに仏教を受容していたので、移住民は各地の根拠地に氏寺を建てて仏像を祀るとともに、氏族の先祖神を祭る「祖廟」を祀った。これが日本の国家神道が語らない神社の始まりである。日本の宗教民俗(シャマニズム)は、天照大神(太陽)をはじめ八百萬の神々はみな自然神であった。渡来民の宗教民俗を解明しなければ古代日本の民俗文化はほんとうの姿を現さないようである。624年(推古天皇32年)当時、各地の氏寺が46ヶ所、僧816人、尼569人と記録されている。(注5
九州の豊前地方(豊国)に移住した新羅・伽耶系の秦氏は、各地に氏寺を造り、田川の香春岳に祖先神(辛国息長大姫大目命)を祀って銅鉱業を開発し、宇佐八幡宮には部族神(ヤハタ神)を祀って一大宗教王国を築きあげた。(注6)

 大和の武市郡の身狭(むさ)・檜隈(ひのくま)・飛鳥(あすか)の地は、藤原京の南にあり、欽明天皇陵(三瀬丸山古墳)・天武持統天皇陵・文武天皇陵・高松塚古墳・桃原墓(蘇我馬古墓)など67世紀の豪族墓や飛鳥時代の天皇陵が集中する。そこはまさに大和朝廷の起源を示す聖地なのであるが、それよりも前にこの檜隈は新しい移住民(今来の民)である百済・伽耶系の東漢(やまとのあや)氏の始祖・阿知使主(あちのおおみ)が十七県の移住民を引き連れて入植・開拓した土地であった。この檜隈の里には、東漢氏の氏寺・檜隈寺があり、そこにある於美阿志(おみあし)神社には東漢氏の始祖・阿知使主が祀られている。この東漢氏と同族の檜隈忌寸(ひのくまのいみき)から出た征夷大将軍・坂上田村麻呂の父・坂上刈田麻呂の「上表文」(注7)には「およそ高市郡内は檜隈忌寸及び十七県の県の人夫地に満ちて居す。他姓の者は十にして一、二なり」と書かれている。作家の金達寿氏はこのことについて「当時のいわゆる大和朝廷、すなわち古代日本の首都であったところの飛鳥を中心とした武市郡の総人口の八、九割までが檜隈の忌寸であった漢氏とその彼らが引き連れてきた人夫(人民)とでしめられていたのです」と書いている。(注8

 山城の太秦を本拠地とした新羅・伽耶系移住民の秦氏は六氏の同族を率いて、その優れた土木技術で桂川(旧葛野川)の治に成功した。今も残っている「葛野大堰(かどのおおい)」がそれである。秦氏は国宝1号で有名な弥勒菩薩像のある広隆寺を氏寺とし、同族の先祖・秦酒君を松尾神社に祀った。また伏見(ふしみ)の稲荷大社(全国稲荷神社の総本社)は和銅4年(711)に、伏見にいた秦伊呂具(はたのいろぐ)が創建し、秦氏の祖先神を祀った神社である。

(注5)『日本書紀』(注6)大和岩雄『日本にあった朝鮮王国』白水社2002年 26

(注7)『続日本紀』「坂上刈田麻呂上表文」

(注8)金達寿『古代朝鮮と日本文化−神々のふるさと』講談社学術文庫200426

(注9)李進煕『日本文化と朝鮮』乙酉文化社 1988年 2


. 廣岡延夫 「遠つ飛鳥と近つ安宿」(注1 )

飛鳥については「遠つ飛鳥」と「近つ飛鳥」という呼び名があって前者を大和、後者を河内に求め、河内から大和へ勢力が移ったとする上田正昭氏の説が、本来飛鳥は大和にあり大和朝廷が河内へ進出したとする門脇禎二氏の説と対立している。アスカは(1)明日香(阿須賀、安須可)、(2)安宿(足宿)、(飛鳥)の三通り表記されていて、私は嘗て(1)が表音的(3)が表意的(2)がその両方を表そうとしたものと解釈した。古事記履中天皇条にアスカの地名説話が載っている。

墨江王(すみのえおう)が謀反したとき天皇は(注2)石上神宮に逃れ、弟(みず)()(わけ)に鎮圧を命じた。水歯別は墨江王の近習である隼人のソバカリを買収して墨江王を殺し、石上へゆく途中でソバカリを殺した」即ち隼人の頸を切って、その明日参上したのでその地を近つ飛鳥といい、大和に着いて「今日は此処に止まり祓禊(はらい・みそぎ)をなし明日神宮を拝まん」といったのでその地を遠つ飛鳥と名づけたと記している。アスカを明日にかけ遠近の説明もしている。古事記が述作された頃には既に二つのアスカがあったのであろう。事実今も奈良県高市郡と大阪府羽曳野市に飛鳥の地名がある。そこで通説では水歯別天皇(反正)の多治比宮(河内丹比)からの遠近によって名づけられたとしている。も一つの根拠とおして外来人の流入方向が河内の高安、足宿(あすか)両群から大和の飛鳥、檜前(ひのくま)にむかっていることもこの説をバックアップしているようだ。しかしこの見解には外来人の流入が5世紀以降であることに留意する必要がある。古事記の記載も八世紀の所見と見てよい。これに対し門脇氏は厳密な文献調査によって反論した。要点は顕宗の皇居は古事記では近飛鳥宮とあるだけだが、書記では近飛鳥八釣宮とあり八釣は明白に大和の地名である。古事記は別に允恭の皇居を遠飛鳥としているが、これは年代の遠近をいうのではないかと指摘した。記紀によって天皇の皇居を調べると允恭から天武まで四世紀に亘って大和飛鳥の地が選ばれており、その間孝徳(難波)豊崎宮と天智(近江大津宮)が域外に出ただけである。

蘇我氏について

また外来人の大和飛鳥への流入については次の見解がある。元来大和盆地の73パーセントは湿田、半湿田の強グライ土壌を含む灰色土壌群であるが、飛鳥、檜前の地域は灰褐色または黄褐色土壌であって、鉄製U字型クワ、スキ、曲鎌による北方系乾田農法(中干法)つまり朝鮮式農法によらねばならなかった。それを推進したのが蘇我氏であるという。蘇我氏については河内石川本拠説があって、これが通説となっているが、門脇氏は以上の所見から逆に大和から河内へ進出したという。つまり外来人の流入方向と蘇我氏の進出方向とは別だと主張する。

蘇我氏の系譜は満智(まち)韓子(からこ)-高麗(こま)稲目(いなめ)馬子(うまこ)毛人(えみし)入鹿(いるか)であって、百済記にある沙至比跪(さちひこ)問題で新羅王と折衝した百済官人木羅斤資(もくらこんし)の子の満致がこの満智と同一人であるという考えが学者の間で固まりつつある。満智は四七五年の百済大敗後葛城氏の庇護の下に檜前に入植したと見られる。河内のアスカには安宿の字が宛てられており、安須加倍(あずかべ)と訓ぜられていた。雄略記にある飛鳥戸郡がそれである。それが和銅六年(七一三)好字二字を以って地名を表記せよという令が出て、安宿となったのであろう。アスカがなければアスカベ はない筈である。戸は品部(ともべ)の意と思われるから雄略の時代に皇室の所領となったのであろう。五世紀ごろ品部が設けられ始めたとする見解とも一致する。ところでアスカはどういう意味であろうか。金達壽(きむだるす)氏は朝鮮語からというが確かな証拠はない。私は地味、土質からきたのではないかと思う。安宿の字を選んだのは住吉、常陸(常世の国の意)と同じく土地を讃えたものであろう。また飛鳥と表記したのは大和アスカにある百済大寺、橘寺等の塔上の鳥の飾りが非常に印象的だったからと思われる。私はアスカについての門脇氏の諸説は正しいと思うが、大和朝廷がそのまま河内に進出したとする考えには賛成できない。いわゆる倭の五王たちの墳墓が河内に集中している点から皈葬(きそう)(注3)という見地に立って、彼らの本貫(ほんがん)は河内であろうと思う。その祖とされる応神陵の濠から鯨骨が出たり、国生み神話は海人のものであり、石上神宮の石上は磯の神である等のことから海に関係がある。説話的ではあっても河内王家の皇居は河内付近にある。三輪山付近の王朝との政権交代は一挙に、しかも全面的であったのであろう。


(注1)この論文は廣岡延夫氏が『筑紫』に載せるため1973年ころ書かれた未発表遺稿である(奥野)。

(注2)この説話に出
てくる石上神社はもともと墨乃江とか丹比とかの近くにあったのではなかろうか。そして魏志韓伝にある蘇塗(そと)と同じように、そこへ逃げ込めば追求を免れるアジール(中世の駆け込み寺)のような性格を持っていたのであろう。(廣岡)

(注3)皈は帰の異体字。帰葬:遺骸を故郷に持ち帰って葬ること(奥野)。