U, 蘇我氏の出自と飛鳥仏教   奥野正男

 

1.漢城・百済の滅亡と移住民

  三国時代(倭国の古墳時代)は、高句麗・百済・新羅の三国が約200年近く抗争し、また中国の統一を果たした隋・唐帝国が領土拡大に乗り出して熾烈な征服戦争を繰り広げ伽耶、百済、高句麗が相次ぎ滅亡した。

 

 高句麗は鴨緑江北岸の国内城(集安)に都を置いたが、3世紀初め、魏の攻撃で大敗し、その回復に約100年かかった。342年、故国原王のときに前燕(慕容氏)の五万の大軍が陸路から侵入し大敗を喫した。燕軍は国内城壊し都宮焼き、五万人を捕虜にして連れ去った。さらに371年には、南方の百済が3万の大軍で平壌城を攻撃し、故国原王は戦死した。次の小獣林王の時代には、仏教を導入し寺院・大学を建てるなど、内治につとめ、文化的な発展をみせた。

 

 広開土王の時代、高句麗は領土を最大限にひろげた。国内城東郊にある広開土王碑には、396年に百済王都の漢山城を攻め、58城、700村を奪取、400年に5万の大軍を百済に派遣して倭や加羅を撃ち、新羅に朝貢させたなど「破壊した城64、村1400」、「生口1000人」など多数の捕虜や牛馬を獲得した功績が刻まれている。

 

 古代の征服戦争では、敗戦国の家畜や財物は奪い尽くされ、兵士や住民は奴隷として異国で果てる運命にあった。それから逃れる一つの道が、海を越えて倭国に移住することであった。

 

  長寿王は27年に都を平壌に移し、475年には3万の大軍を率いて百済の王都・漢城を攻め陥した。百済・蓋王は高句麗軍に殺された。高句麗はこの勝利で漢江以北を領有した。王子の文周王は貴族の木(り・ら・羅)満致、祖彌粲取らと南に落ち延び、錦江上流の熊津(公州)を国都に百済の再建をはかった。しかし王族や高官の間に内部抗争がつづき、478年、文周王は暗殺された。木満致はその後の百済史から姿を消した。(注10

 

2.百済の木満致と大和の木満致

 一方『日本書紀』応神天皇25年条(甲寅(こういん)294) )に、百済の国政を執った大和の木満致なるものが登場する。(注11

25年に百済の直支王、薨去。即ち子・久爾辛(くにし)、立ち王となる。王、年(わか)し。大和の木満致国の政を()、王の母と(たわ)けて、多に禮無き行す。天皇、聞こしめしてこれを召し給う。

『百済記』に云く、木満致は、是木羅斤資(もくらこんし)新羅を討ちし時、その国の婦を(めとり)所生(うめ)り。その(かぞ)(いたはり)を以って任那(みまな)(ほしいまま)にす。来たりて我が国(百済)に入り貴国(かしこきくに)徃還(かよい)、制を天皇(みかど)に承けたまわり、我が国(百済)の政を執り、権重(いきおい)・世に当れ。然るに天皇(すめらみこと)、その(あし)きことを聞しめしてこれを召し給う。」

門脇氏が論じた蘇我満智と木満致が同一人物かどうかは、継体・欽明紀の「百済三書」の性格や蘇我稲目の台頭(宣化朝に大臣)と百済系亡命王族・氏族の活動にふれてから検討することにする。ここではまず『三国史記』の百済貴族・木満致と『日本書紀』の百済の国政を執った大和の木満致とが同一人物かどうかということから検討する。

百済貴族・木満致は『三国史記』蓋鹵王21(475)の漢城落城の後に南行した。したがって、木満致がもし倭国に来たとすれば、その時期は蓋鹵王21年以後であろう。

『日本書紀』雄略23年条(己未・479)には、百済の文斤王が薨じたので、倭国に来ていた末多王に築紫の国の兵士・五百人を付けて国に送り返したことなど、漢城落城後の百済救援に関する外交事象が記されている

また、『日本書紀』雄略5年条には、百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の軍君(こにきし)(昆支王)に「汝日本(やまと)(まい)でて天皇に(つかえ)えまつれ」。軍君答えて「願わくは君の婦を賜わり給え」加須利君即ち(自分の子を)孕める婦を軍君に(めあわせ)て曰く「わが孕める婦、すでに産月(うみづき)に当れもし路にして生まば、一つの船に乗せて、速やかに国に送らしめよ」と。孕める婦、果たして、筑紫の各羅島(かからじま)で児を生めり。よりこの児を名けて(せまきし)曰う。ここに軍君、一つの船を以て嶋君を国に送り。これを武寧王と。百済の人、この島を呼び主嶋(にりむせま)()。秋七月、軍君、京に入る。既にして五人の児あり。(『百済新撰』に曰く、辛丑の年、蓋鹵王、弟の昆支王を遣わして、大倭に向でてにに天皇(みかど)に侍え奉らしめ、以て先王の好を脩。)」という記事がある。

これは『三国史記』に記載されていない記事で、史実と異なる伝承と見られていたが、のち武寧王墓から出土した墓誌銘の年次と一致し、雄略紀が実年代で書かれた記録であることが明らかになった。また同時に、これは百済滅亡の時期に、百済王族や貴族が倭国に亡命したことを伝える重要な史実である。

ただし『日本書紀』は、すでに見たように、木満致が倭国に来た時期を漢城の陥落と鹵王の死を記した雄略紀20476よりも干支三巡(えとさんじゆん)以上(182年)も遡らせた応神紀25 (甲寅(こういん)294)に書いているのである。

『日本書紀』の編者は、木満致の渡来時期をなぜこのように古くしたのであろうか。

木満致の渡来に関する伝承は、後述するように欽明朝(540571)に集約された百済・伽耶系渡来氏族の家伝類(原「百済三書」)にあったと推定される。この原「百済三書」には「新羅を討った功臣・木щメ資。新羅女との間に生まれた斤資の子・満致」という輝かしい活躍が伝承の核になっていたとみられる。『日本書記』が「木満致」を「大倭の木満致」と記述しているように、百済滅亡後、木満致が倭国に来ていることは、隠しようのない史実であった。また、新羅を討った木щメ資・満致親子の功績は、大和に移住してきた百済・伽耶系の氏族のあいだに広く膾炙していたから、木щメ資・満致親子が実在したことを隠すことはできなかったのであろう。

そこで『日本書紀』の編纂者は、『百済記』に云くとして「大和の木満致、国の政を()、王の母と(たわ)けて、多に禮無き行す。天皇、聞こしめしてこれを召し給う。」「(満致は)(かぞ)(いたはり)を以って任那(みまな)(ほしいまま)にす。来たりて我が国(百済)に入り貴国(かしこきくに)徃還(かよい)、制を天皇(みかど)に承けたまわり、我が国(百済)の政を執り、権重(いきおい)・世に当れ。然るに天皇(すめらみこと)、その(あし)きことを聞しめしてこれを召し給う」と書かれている。誰でも気付くように、『日本書紀』の編纂者は、木満致を親の功績をかさに、王の母と(たわ)、任那に専横をほしいままにした悪人に仕立て上げ、その年代を干支三巡(えとさんじゆん)以上(182年)も遡らせた応神紀25 (甲寅(こういん)294)に書いたのである。

また、この記述内容には、「制を天皇(みかど)に承けたまわり、我が国(百済)の政を執り」、( 天皇の命令をうけて、百済の政治をやり)など、独立した百済の史家が書いた史実とは言いがたい、国家関係の歪曲がうかがえる。

『百済記』の「貴国(かしこきくに)」を二人称的呼称(相手の尊称)とみることに対して、山尾幸久氏は、百済王仁貞らの上表文にある「貴国」の用例(注12)を示して「この「貴」は卑賤に対する尊貴であり、蕃国にたいする貴国である」としているが、『三国史記』や朝鮮三国の金石文、中国の史籍にも、倭国を貴国と書く例がないことにも検討の余地はあろう。倭国のことを「貴国」と書く立場は、百済貴族の木満致が応神天皇の命令をうけて、百済の政を執り、その勢いは世に勝るものがない」という書き方対応したものである。百済滅亡後のこととは言え、ここには日本の天皇が百済の国土と人民を支配していたことを強調する筆法が誰の目にも明らかであろう。

 

百済滅亡時の「百済記」の記事が雄略紀20年条にも引用されている。

 

「百済記に云う、蓋鹵王乙卯年の冬、狛(高句麗)の大軍来たりて、大城を攻めること七日七夜、王城破れて遂に尉礼国を失う。王および大后・王子らみな敵の手に没しぬ」とあり、続けて、「(雄略天皇)21年春3月、天皇は百済が高麗(高句麗)の為に破れぬと聞きて、熊津(公州)を汶洲王(文周)に賜り、その国を救い興す」と書いている。雄略天皇が所領していた熊津の地(公州)を文周王に賜った というこの記述にたいし、津田左右吉は「熊津が日本の領土であった形跡の毫も見えない以上、潤色というよりむしろ虚構の説話である」(『古事記及日本書紀の研究』)と批判した。

 

『日本書紀』に引用のいわゆる「百済三書」は、「百済記」が五カ所、「百済新撰」が三カ所、「百済本記」が十カ所、合わせて十八カ所におよぶが、『日本書紀』にだけ引用された、『三国史記』とはまた別系統の史料である。

はじめに三品彰英氏の研究から木満致の倭国移住の問題をとりあげる。

 

「木満致は木羅斤資の子とあるから木羅満致の省略された書方であり、『三国史記』(百)済紀、蓋鹵王21年条にある木満致と同人である。さてこの木(羅)満致の出自であるが、その父・斤資は神功皇后49年条の加羅七国平定記事にも百済の将なりと注しているし、木羅の姓から云っても百済人とすべきであろう。満致の出自は百済であり、母は新羅の女、そして権勢は日本天皇を背後にもつという、国際的な人物であったといえよう。」(注13)と述べている。

 

さて、大和の木満致と百済の満致が同一人であるとすれば、倭国に来た時期は、百済が都を熊津(公州)に遷した475年以後のこととみるのが正論であろう。満致が倭国に来た目的は、倭国王に百済救援を要請したことは言うまでもない。『日本書紀』雄略天皇23年条(479年)に、「末多王に兵器を賜り、あわせて筑紫国軍士500人を遣わす」「この歳、筑紫の安致臣、馬飼臣ら船師を率いて高麗を撃つ」などの記事が続く。

 

大和の木満致と百済の満致が同一人であることが明らかなのに、『日本書紀』の編者は、木斤資・満致親子の活動時期を神功紀62年(262)と応神紀25年(294)に、183年も古くしたのである。なぜ古くしたのだろうか。

『日本書紀』の編纂者は、同一人物で、雄略朝に活躍していた大和の木満致と百済の満致を切り離し、その伝承を干支三巡(180年)以上も古い、神功皇后と応神天皇の時代の人物のように描くことによって、日本の天皇が滅亡した百済や伽耶の国土と住民を古くから支配していたかのような倭国の歴史をえがこうとしたのである。

 

では『日本書紀』の編纂者は、なぜそのような事実と違う歴史を書こうとしたのか。その理由は、天武天皇が新政権を立て、蘇我氏に代わって『日本書紀』の編纂をすすめることになったとき、これまでの飛鳥王朝がとってきた唐・新羅と敵対した対外政策を改めざるを得なかった事情による。蘇我氏を大臣とする飛鳥王朝の(いしずえ)が欣明朝に固まったことは多くの史家が認めるところである。蓋鹵王代の百済滅亡にはじまり、金海伽耶と高霊大伽耶の滅亡に続き、飛鳥王朝の命運を賭けた唐・新羅軍との白村江の決戦・敗北にいたるまで、飛鳥政権は、百済・伽耶系の王族・貴族・移住民を受け入れ、唐・新羅軍と敵対してきた。一方、戦勝国として三国統一の道を開いた新羅もまた、200年をこえる戦乱のなかで、九州の秦氏や京都の秦氏など多くの新羅・伽耶系氏族を倭国に移住させてきたのであった。飛鳥王朝に代わった天武新政権は、白村江の敗北のあと、唐に従属した唐風の国家を建設する道に転換せざるをえなかったのである。神功皇后や応神天皇のときから百済や伽耶を日本の天皇が支配していたというのは、欽明朝に『百済三書』を改変した蘇我・飛鳥王朝が実態として百済の亡命政権だったからである。天武の新政権は『日本書記』の編集にあたり、百済一辺倒の外交政策を捨て、蘇我・飛鳥王朝とはちがう、神話の時代から百済や伽耶を支配してきたという史観をとったのである。

 

本来、百済・伽耶史の英雄として称えられるべき木щメ資・満致親子の伝承が、悪意にみちた描き方になっているのもそのためである。父の功績をかさにきて任那(みまな)(ほしいまま)にし、応神天皇の命令をうけて、我が国(百済)の政を執り、その勢いは世に勝るものがない。遂には、王の母と姦通し、多に禮無き行す」という木満致の人物像は、書紀編者が力をこめて悪玉に描いた蘇我蝦夷と二重写しになる。人物の細かい描写の少ない古代人物像のなかで、このように微細にわたって悪玉に仕立てられているのは、木щメ資・満致父子と蘇我入鹿・蝦夷父子だけである。蘇我氏を親百済路線の元凶として徹底的に悪玉に描いた『日本書紀』の編者は、蘇我氏の始祖伝承につながる木щメ資・満致父子に対しても徹底的に悪玉に描いたのである。おそらく筆者が同じなのであろう。

 

「百済の国政を執った大和の木満致」なる伝承は、最初に飛鳥に入植した百済王族や倭漢氏の手から、やがて宣化朝に大臣になり欽明朝には実質的な蘇我氏の統率者となった蘇我稲目の代にも伝わったであろう。蘇我馬子の代には、聖徳太子とともに国史編纂のため氏族の伝承を集めていたから、「百済の国政を執った大和の木満致」の伝承は、日本書記の編纂時期(八世紀初)にあってもまだ、生き残っていたとみられる。当時の識字者(文字を知っている人)がほとんど知っていたと考えられるこの伝承を『日本書紀』の編纂者たちは抹殺することはできなかったのである。それで、同時代の同一人物であることを曖昧にし、同名だが別な時代の人物として、干支三巡も遡らせて書いたのである。

 

(表1参照)。

『三国史記』の木満致が実在した百済の有力貴族であったことは疑う余地のない事実である。一方、『日本書紀』の編者たちは雄略20年条(476)に史実として疑問の余地のない鹵王の死を、雄略23年条(479)には百済救援軍の派兵を書きながら、同名で同時代に「百済の国政を執った大和の木満致」の存在を干支三巡(えとさんじゆん)以上(182年)も遡らせ、応神天皇25年条(甲寅(こういん)294) に繰り上げて書き、蘇我氏とともに歴史の闇に封じ込めたのである。

 

表1『三国史記』の木満致と『日本書紀』の木(羅)満致記事の年代差

『日本書紀』

史料D神功紀49己巳(きし)249)条

春三月、荒田別、鹿我別を将軍とし、(くてい)らと兵を整えて、卓淳国に渡り、百済の將・木羅斤資(もくらこんし)沙々奴跪(ささぬく)らに命じ、新羅を撃ち之を破り。よって比自烽、南加羅、喙国、安羅、多羅、卓淳、加羅の七国を平定す

史料I.応神紀25(甲寅(こういん)294)、百済の直支王、薨去。即ち子・久爾辛(くにし)、立ち王となる。王、年(わか)。大和の木満致国の政を()、王の母と(たわ)けて、多に禮無き行す。天皇、聞こしめしてこれを召し給う。

史料K雄略紀20条(丙辰・476)の冬、高麗の王、大いに軍を発して、伐ちて百済を滅ぼす。

『三国史記』

己巳(きし)249 [ 雄略紀20年条より227年、干支三巡+47年遡上]

(甲寅(こういん)294) [ 雄略紀20年条より干支三巡+2年遡上]

史料N『三国史記』蓋鹵王21(475),九月、高句麗王の長寿王は兵三万で、王都の漢城を陥し、蓋鹵王を殺した。文周は木満致・祖彌桀取とともに南へ行った。

 

注10)『三国史記』百済・蓋王21年(475)条。(注14の史料N「九月、高句麗王の巨l(長寿王)は兵三万を引き連れてきて、王都の漢城(南漢山城とその北方の春宮里)を包囲した。蓋鹵王は城門を閉じ、出て戦うことができなかった。高句麗人は兵を四つの道に分けて挟み撃ちにし、また風を利用して火を放ち城門を焼くと、人々は恐れをなして、あるいは出て降伏しようとする者もいた。王は窮迫してなす術を知らず、数十騎をつれて門を出、西の方へ逃げると、高句麗人は追っていって殺害した。王は子の文周に「お前はここで一緒に死ぬのは無意味である。お前は(難を)避けて、國統を継ぐようにせよ」といった。そこで文周は木満致・祖彌桀取とともに南へ行った。

 

注11)『日本書紀』応神天皇25年条(注15の史料I.応神紀25年、甲寅(こういん)294)

 

注12)『続日本紀』延暦9年条

 

注13  三品彰英『日本書紀朝鮮関係記事考証』上 251ページ 天山舎2002年)

 

注14 1 、『日本書記』『三国史記』の百済関係記事

 

T、『日本書記』『三国史記』の百済関係記事(1

 

史料@. 神功紀5乙酉(いつゆう)205)条に、葛城襲津彦、新羅に詣り蹈鞴(たたら)の津に次りて草羅(さわら)(さし)を抜きて(かえ)。この俘人(とりこ)等は、今の桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしぬみ)漢人(あやひと)らが始祖(とほつおや)なり。

史料A. 神功紀39己未(きび)239)条に、(魏志に(いわ)、明帝の景初三年六月、倭女王、郡に遣使、朝献を求む)40年、43年条にも魏志を引用。(注1:飯田季治注記)。<この条(39,40,43年条)は、魏志の文を後人が書き入れたもので、流布本を始め、諸本、悉く細字(雙注)に記されている。即ちこの三章は、江古本、清家本等に載せられて無いのが正しいのである。(集解、黒羽本、通釈等には削除された。)

 

史料➂.神功紀46丙午(へいご)246)条に、斯摩宿禰(しまのすくね)卓淳(とくしゅ)国に遣す。ここに卓淳国王・末錦旱岐(まきむかんき)曰く「百済の王、東の方に日本(やまと)と云う貴国(かしこきくに)あることを聞きて、臣らを遣しその貴国を(もう)でしむ・・・・」「斯摩宿禰、爾波移(にはや)ら二人を百済国に遣しむ、時に百済の肖古王、深く歓喜し、角弓、(ねりがね)四十枚を(あた)。王曰く「吾国に多に珍宝あり。貴国に貢らむと欲へども道路を知らず。今より使者に付けて貢献(たてまつ)らまくのみ」

 

史料C. 神功紀47丁卯(ていぼう)247)条に、夏四月、百済の王、(くてい)らを遣し朝貢。新羅国の調の使、(くてい)と詣来り。二国の貢物を検め、新羅が百済の貢物を奪ったことを(ただ)す。

 

史料D. 神功紀49己巳(きし)249)条に、春三月、荒田別、鹿我別を将軍とし、(くてい)らと兵を整えて、卓淳国に渡り、百済の將・木羅斤資(もくらこんし)沙々奴跪(ささぬく)らに命じ、新羅を撃ち之を破り。よって比自烽、南加羅、喙国、安羅、多羅、卓淳、加羅の七国を平定す。よって兵を移して古溪の津に至り、南蛮、忱彌多禮を屠り、百済に給う。ここに百済の王・肖古、王子・貴須、荒田別、木羅斤資(もくらこんし)ら再会、百済の王、誓いて曰く「今より後、常に西の(みやっこのくに)と言いつつ、春秋に(みつぎ)奉らむ

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史料E. 神功紀50年(庚午(こうご)250)条に、春2月、荒田別ら還り。夏5月、千熊長彦、(くてい)ら百済より還る。皇太后、歓び(くてい)問いて曰く、「海西の諸々の韓を、既に汝が国に与え。今、何事ありてか、頻りにまた来る」。(くてい)ら曰さく「天朝の鴻澤(こうたく)、遠く弊邑に及べり。吾が王、歓喜踊躍(よろこびほどばし)、還る使いに至誠(ねもごろなるごと)を致す。萬世に及ぶと雖も、(つかえまつら)ざらむ」。皇太后、勅して多沙城(たさのさし)を増し賜り、往還路の(うまやだち)

 

史料F. 神功紀51年(辛未(しんび)251)条に、春3月、百済の王、また(くてい)らを遣わして朝貢す。その年、(くてい)らに副えて千熊長彦を百済国に遣す。この時、百済王父子、拝みて申さく。「貴国の鴻恩、天地より重し。聖王・上に在まして、明けこと日月の如し。(とこしえ)に西の(みやつこのくに)となり(つい)二心(ふたごころ)なからまし」 

 

史料G. 神功紀52年(壬申(じんしん)252)条に、秋9月、(くてい)七枝刀(ななさやのたち)七子鏡(ななつこのかがみ)、種々の重宝を献る

 

史料H. 神功紀62壬午(じんご)262)条に、新羅・不朝(みつぎたてまつらず)。その年、襲津彦を遣わして新羅を討たし。百済記に曰く。「壬午年、新羅、貴国に貢奉らず。貴国、沙至比跪を遣わして討たし。然るに沙至比跪、新羅の美女を受れて、反り加羅国を伐つ」。天皇、大に怒り、木羅斤資を遣わして、加羅の社稷(くに)を復し給う。

 

史料I.応神紀25(甲寅(こういん)294)、百済の直支王、薨去。即ち子・久爾辛(くにし)、立ち王となる。王、年(わか)し。大和の木満致国の政を()、王の母と(たわ)けて、多に禮無き行す。天皇、聞こしめしてこれを召し給う。

 

『百済記』に云く、木満致は、是木羅斤資(もくらこんし)新羅を討ちし時、その国の婦を(めとり)所生(うめ)り。その父の功を以って任那(みまな)(ほしいまま)にす。来たりて我が国に入り、貴国に徃還ひ、制を天皇に承けたまわり、我国の政を執り、権重(いきおい)・世に当れ。然るに天皇、その(あし)きことを聞しめしてこれを召し給う。

 

史料J雄略紀5年条、(辛丑(しんちゅう)461)、夏4月、百済の加須利君(蓋鹵王也)、弟の軍君(こにきし)(昆支王)に告げて曰く。「汝、日本に(まい)でて、天皇に(つかえまつ)」。軍君(こにきし)曰く「願はくは君の(みめ)を賜り、而して後に遣し奉り給へ」と。加須利君、則ち孕める(みめ)を以って、軍君(こにきし)嫁與(あわせ)曰く「我が孕める婦、産月に当れもし路に於てまば願わくば一の船に乗せて、何処にありても、速やかに国に送らしめよ」と。六月の丙戌朔(ひのえいぬのついたち)の日、孕める婦、果して加須利君の言える如く、筑紫の各羅島に於きて児を産めり。依ってこの児を名けて(せまきし)曰う。ここに軍君(こにきし)、即ち一つの船を以って、嶋君(せまきし)を国に送り。これを武寧(こきし)。百済の人、この島を呼び主嶋(にりむせま)曰う。秋七月、軍君(こにきし)、京に入る。既にして(いつたり)の子あり。(『百済新撰(くだらのふみ)』に曰く、辛丑(かのとのうし)の年、蓋鹵王、弟の昆支君を遣て、大倭に(まい)天皇に仕え奉らしめ、以って先王の(よしび)(おさ)。)

 

史料K雄略紀20年条(丙辰・476)の冬、高麗の蓋鹵王、大いに軍を発して、伐ちて百済を滅ぼす。『百済記』に云く。蓋鹵王の乙卯の年の冬、(こま)の大軍・大城を攻むること七日七夜。王城降陥て、遂に尉禮城を失い、王および大后、王子等、みな敵の手に(うしな)われぬ。

 

史料L雄略紀21年条(丁巳・477)の春三月、天皇、百済・高麗のために破られぬと聞こしめして、久麻那利(くまなり)を以って洲王(もんすこきし)に賜り、その国を救い、興し給う。時の人みな曰く。「百済国、属すでに亡び倉下に集まり悲しみぬれども、実に天皇の(みたまのふみ)に、更にその国を造せり。」

史料M雄略紀23年条(己未・479)の夏四月、百済の文斤王薨ぬ。天皇、昆支王の五の子のなかに、等二に当る末多王の幼年(わか)して聡明(さとき)をもって、勅をもって内裏に召し、親ら頭面を撫で、勅慇懃にして、その国に王とし給う。依って兵器を賜い、併せて築紫の国の兵士・五百人を遣わして、国に護り送らし。これを東城王となす。この年、百済の調賦・常の例に益れり。築紫の安致臣、馬飼臣ら、船師を率いて以って高麗を撃つ。

 

史料N『三国史記』蓋鹵王21(475),九月、高句麗王の巨l(長寿王)は兵三万を引き連れてきて、王都の漢城(南漢山城とその北方の春宮里)を包囲した。蓋鹵王は城門を閉じ、出て戦うことができなかった。高句麗人は兵を四つの道に分 けて挟み撃ちにし、また風を利用して火を放ち城門を焼くと、人々は恐れをなして、あるいは出て降伏しようとする者もいた。王は窮迫してなす術を知らず、数十騎をつれて門を出、西の方へ逃げると、高句麗人は追っていって殺害した。王は子の文周に「お前はここで一緒に死ぬのは無意味である。お前は(難を)避けて、國統を継ぐようにせよ」といった。そこで文周は木満致・祖彌桀取とともに南へ行った。