福岡歴史研究会 講義要録 2007年2月10日 一覧 戻る  
2007年「よくわかる福岡の歴史」近代史
黒田家と福岡藩史(第3期 近代社会への過渡期)
講師 石 瀧 豊 美
「伊能忠敬の筑前測量」

  (レジメ)

  1 伊能忠敬の生涯


  2 伊能忠敬の地図


  3 伊能忠敬の測量日記


  4 伊能忠敬と福岡藩
 ★伊能忠敬 出典:フリー百科事典『ウィキペデイア(Wikipedia)』   <伊能忠敬記念館>
 伊能忠敬の銅像(東京・富岡八幡宮) 【写真略】

伊能忠敬いのう ただたか、俗に「いのう ちゅうけい」とも、延享2年1月11日(1745年2月11日) - 文政元年4月13日(1818年5月17日))は江戸時代の商人・測量家。幼名は三治郎。

経歴

1745年 上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・五郎左衛門家で生まれる。6才の時母が亡くなり婿養子だった父は兄と姉を連れ実家の武射郡小堤村(現・横芝光町小堤)の神保家に戻るが、三治郎は祖父母の元に残る。その後生家を叔父(母の弟)が継ぎ、三治郎が10才の時に父の元に引き取られる。

1762年、18歳の時に、下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)の伊能家に婿養子に入り、以来しばらくは商人として活動する。伊能家は、酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいた他、利根水運などにも関っていた。商人としてはかなりの才覚の持ち主であったようで、伊能家を再興したほか、佐原の役職をつとめたなどの記録が残されている。また、かなりの財産を築いた。

1794年、50歳の時に隠居し、家督を長男景敬に譲ったのち、江戸に出る。江戸幕府の天文方・高橋至時に師事し、測量・天文観測などをおさめる。

1800年、56歳の時に、第1次測量を開始。これは、測量家としての腕を見込まれたことのほか、忠敬が私財を投じて測量事業を行おうとしたことが幕府にとっても有益だと判断されたということがあったようである。最初の測量は蝦夷地(現在の北海道)およびその往復の北関東・東北地方において行われた。ただし、忠敬の測量が極めて高度なものであったことから、その後徐々に幕府からの支援は増強され、国家的事業に育っていった。

こうして作られたのが大日本沿海輿地全図であり、大変精度の高い日本地図として評価された。完成したのは忠敬没後の1821年であった(仕上げ作業を担当したのは高橋至時の子、高橋景保)。墓地は上野源空寺(源空寺には、高橋景保・高橋至時・伊能忠敬の大日本沿海輿地全図組三人頭の墓が並んでいる)。また佐原の観福寺にも遺髪をおさめた参り墓がある。

後年(1828年)、シーボルトがこの日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚。これに関係した日本の蘭学者(至時の息子高橋景保ら)などが処罰された(→シーボルト事件)。

伊能忠敬は、深川界隈に住居を構え、全国測量の旅に出かける際は、安全祈願のために、富岡八幡宮に必ずお参りに来ていたことから、2001年に当八幡宮の境内に銅像が建立された。

年表

1745年 上総国山辺郡小関村の名主・五郎左衛門家で生まれる。
1751年 (6歳)母が亡くなり、婿養子だった父は実家の武射郡小堤村の神保家に戻る。
1755年 (10歳)実家の神保家に戻っていた父の元に引き取られる。
1762年 (18歳)下総国香取郡佐原村の酒造業を営む伊能家に婿養子に入る。
1794年 (50歳)隠居し、家督を長男景敬に譲る。
1795年 (51歳)江戸に出て幕府天文方高橋至時に暦学天文を学ぶ。
1800年 (56歳)第1次測量
1801年 (57歳)第2次測量
1802年 (58歳)第3次測量
1803年 (59歳)第4次測量
1805年 (61歳)第5次測量
1808年 (64歳)第6次測量
1809年 (65歳)第7次測量
1811年 (67歳)第8次測量
1815年 (71歳)第9次測量
1816年 (72歳)第10次測量
1818年 (74歳)死去、喪を秘して地図製作を続行。
1821年 『大日本沿海輿地全図』完成、喪を公表。

特記

「伊能大図」については、2001年、アメリカ議会図書館で写本207枚発見。続いて国立歴史民俗博物館で2枚、国立国会図書館で1枚発見された。欠けていた4枚については、2004年5月に、海上保安庁海洋情報部で保管されていた縮小版の写しの中に含まれていることがわかり、全容がつかめるようになった。なお、幕府に献上された正本は明治初期1873年の火災で失われ、伊能家で保管されていた写しも関東大震災で焼失したとされる。
2006年12月、「伊能大図」全214枚を収録した「伊能大図総覧」が刊行された。
2007年1月、海上保安庁海洋情報部所蔵の写しの中から最高レベルの原寸模写図3枚を含む色彩模写図が発見された。
宗谷付近については、当時、伊能がその弟子であった間宮林蔵に、依頼して行わせた測量結果を基に作図が行われた。
日本で初めて金星の子午線経過を観測した人物である。
晩年、旅先から「歯がなくなって好物の粕漬も食えなくなって悲しい」と言った内容の手紙を故郷に送っている。
ちなみに、現存するもっとも古い唐木仏壇の一つに、伊能忠敬家の仏壇(18世紀頃)がある。
1999年から2001年にかけて「伊能ウォーク」と呼ばれるイベントがあった。このイベントでは、伊能忠敬の測量隊が歩いたルートを歩くほか、拠点地で伊能図の展示会などが行われた。


★伊能忠敬と伊能大図 〜九州大学デジタル・アーカイブ〜  <伊能中図閲覧>
 九大アーカイブから「伊能大図top」を入力し、検索してください

 忠敬が作成した日本地図は、総称して「伊能図」と言われ、大きく分類すると「大図」(1/36,000:214枚)、「中図」(1/216,000:8枚)、「小図」(1/432,000:3枚)とその他の図となります。このうち、大図は実測図で、これを縮小して中図、小図が作られました。大図作成のための測量は、方位と距離に記録を野帳に記録しながら沿岸や街道を進行行する方法で行われました。また、最終の大図1枚の大きさはほぼ畳1枚ほどあり、日本列島を214枚でカバーする膨大なものでした。しかし、幕府提出図は、明治6年の皇居炎上の際に焼失し、東京帝国大学に提出・保管されていた伊能家控図についても、大正12年の関東大震災で焼失しました。

 現存する大図は、大名家にあった部分的な写図と明治初期に模写された写図等60枚程度しか分かっていませんでした。 

★伊能大図(米国)について 〜九州大学デジタル・アーカイブ〜

 伊能忠敏の測量成果に基づく「大日本本沿海輿地全図」の大図(縮尺3万6千分1)は、214枚で日本全国をカバーすることが知られています。これまで国内で存在が知られている枚数はその内わずか60数枚でしたが、去る2001年3月、米国議会図書館でこの未碓認分148枚を含む207枚(内169枚が彩色なし)が発見されました。

 なお、この伊能大図(米国)は、国土地理院の前身である参謀本部陸地測量部の輯製(しゅうせい)20万分1図作成のための骨格的基図として模写されたものと考えられています。

<全図揃う>

 ★あの人の人生を知ろう〜伊能忠敏編 http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/tadataka.html

 当初、至時は忠敬の入門を“年寄りの道楽”だと思っていた。しかし、昼夜を問わず猛勉強
している忠敬の姿を見て、彼を“推歩先生”(すいほ=星の動き測ること)と呼ぶようになった。
忠敬は巨費を投じて自宅を天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過を観測したり
もした。

 この頃、暦局の人々の関心ごとは、“いったい地球の直径はどれくらいなのか”という疑間だった。オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、大きさがよく分からなかったのである。そこで忠敬はΓ北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれぼ地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。この2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が少なくなる。師弟は考えた…江戸からはるか遠方の蝦夷地(北海道)まで距離を測ればどうだろうか、と。

 当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要で、至時が考えた名目こそが“地図を作る”というものだった! 外国の艦隊がやって来ても、幕府には国防に欠かせぬ正確な地図がなく、そこを突いたのだ。結果、幕府は蝦夷地ほもちろん、東日本全体を測量しても良いという許可を与えたのだった。(ただ幕府の援助はなく、すべて自費。忠敬は30年間しっかりと家業を勤めてきたから、この測量が可能だつたのだ)

 忠敬は幕府に手紙を送った「隠居の慰みとは申しながら、後世の参考ともなるペき地図を作りたい」。

 1800年(55歳)、忠敬は江戸を出発。測量の方法は、歩幅が一定になるように訓練し、数人で歩いて歩数の平均値を出し、距離を計算するというものだった。目撃者の記録には「測量隊はいかなる難所もお通りなされ候」とあり、雨、嵐、雪をものともせず、海岸線の危険な場所でも果敢に突っ込んでいった。

 昼は測量、夜は宿で天体観測し、両者を比較しながら誤差を修正、各数値の集計作業に追われた。江戸にいた至時は手紙を書いて忠敬を励ました「今、天下の学者はあなたの地図が完成する時を、日をか数えながら待っています。あなたの一身は天下の暦学の盛衰に関わっているのです」。

 忠敬は3年間をかけて東日本の測量を終え江戸に戻ると、さっそく本来の目的であつた地球の大きさの計算に取り組んだ。その結果を、後に至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると、共に約4万キロで数値が一致し、師弟は手に手を取り合って歓喜したという。この時忠敬が弾き出した数値は、現在分かっている地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだった! 

 しかし、その喜びの中、至時は天文学書の翻訳等に無理を重ねたため病に倒れ、翌年39歳の若さで永眠する。忠敬は深く打ちのめされた−。


★伊能忠敬測量の道 http://www.thr.mlit.go.jp/kansen/prmag/kansen/020/michi/0000.html

 ここで測量方法を紹介するが、単純にいえば、田畑や宅地を計るのと同じ方法だった。例えば海岸線は曲線を直線の連続に分け、その区切りに梵天(竹竿の先に紙切れを付けたハタキのような形状のもの)を立てて、直線ごとの距離と方角を計る。距離は、第1次測量※注1では自分の歩幅に歩数を乗ずる歩測が主体だったが、2次※注2以降は間縄(けんなわ)や鉄鎖(てつさ)を使って計った。また海岸が絶壁で間縄が張れない時は、船を出し、海で間縄を張る。さらに傾斜がある地点では、携帯用小象限儀(しょうげんぎ)で勾配を計り、対数表で平面距離に変換した。

 三浦半島、伊豆半島を回って房総から北上した一行は、道の奧に分け入り、8月21日、塩釜に入った。ここからは松島の島々、石巻からはリアス式海岸が連続する、いわゆる「測量の難所」だ。記録には、海で大々的な引き縄測量が行われたと記録に残る。まず先触れが地元に協力を依頼し、後から測量隊が行く。街道を歩き、海岸線を歩き、船を漕ぎ出す。そして夜、星が出ていれば観測して緯度を調べたという。

 ※注1 第1次測量…寛政12年4月19日〜10月21日(1800年6月11日〜12月7日)、奥州街道と蝦夷地東南岸約3200kmを歩測した。

 ※注2 第2次測量…享和元年(1801)4月、まず相模・伊豆半島約570kmを2カ月で測量。直後の6月19日〜12月7日(新暦7月29日〜1802年1月10日)、本州東海岸2550kmを間縄などを使って測量した。

プログ 長崎街道の今昔 から

 アメリカ伊能大図里帰りフロア展
 伊能忠敬が出会った人々 その1
 原左太夫
 原左太夫は亀井昭陽の友人だった

 三人の付廻り代官出揃う
 境目受持の上野小八
 分間方の山本源助
 山本源助の墓誌
 横川流だった筑前の分間方
 埋没した星野助右衛門の墓石

@ 原田宿と『測量日記』
A 原田宿の年寄山内卯右衛門
B 酒造屋・薬種屋でもあった山内卯右衛門
C 原田宿の代官杉山平四郎

略歴.

 伊能忠敬 いのうただたか 1745〜1818(延享2〜文政元)地理学者。下総国(千葉県)佐原の人。隠居後、幕府の天文方高橋至時(よしとき)に入門、西洋暦法・測図法を学び、1800年(寛政12)以降、幕命により全国を測量し精密な『大日本沿海輿地金図』を完成、また詳細な『測量日記』を残した。特に九州測量は東海岸回りの第1次(1810年〜11年)、筑前六宿、薩摩街道筋の第2次(1812年1〜7月)、西海岸回りの第3次(1812年7〜10月)にわたり綿密で、3回とも小倉を起点としている。この測量に対し福岡藩は村々に予備調査資料を提出させるなど便宜を図った。当時浦方の役人として一行の案内役を引き受けた青柳種信が忠敬からその国学の造詣の深さを高く評価されたことは有名。『測量日記』の県関係部分は『三苫(みとま)文書(胎土(いと)郡)』・『高原文書(御笠(みかさ)郡)』など関係史料と相まって、文化年間の県の歴史・地理の好資料である。→青柳種信→Ξ苫文書(前原)→高原文書  <近藤典ニ>

  • 今年初めての石瀧先生の講義で、いつもの優しい語り口を堪能しました。
  • 前半はインターネットからのデータをもとに伊能忠敬像を話してくれました。
  • 50歳から天文の道に入り74歳で死ぬまでに「大日本沿海輿地図全図」を完成させる偉業を達成。
  • 伊能忠敬は測量日記も残しており、これで測量の状況と同時に当時の歴史が見えてくる。私(石瀧講師)の恩師である近藤典二先生がこの日記をもとに「日記に出てくる人物」に注目してまとめている。面白い出会いもあったようだ。
  • 第8次調査(3年間の旅暮らし)で九州にやってきた時、箱田という人がついてきていた。この人は備後の出身で、箱田六助(玄洋社)関係がるのかもしれないがはっきりしない。それはさておき、この箱田という人の子供が榎本武揚だ。こんなことが分かっていくと歴史の面白さもなおさらだ。
  • 原左太夫、亀井昭陽(南冥の子)、青柳種信ら伊能忠敬の会った福岡藩の役人や学者などとの交流も紹介、興味深い講義となった。
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